見出し画像

共感力と共感覚 内なるひきこもりと感受性

友人の一人は、「人に色が見える」という独特な感覚を持っています。彼女とは、私の内なる声との対話を刺激してくれます。私には見えない色を想像することで、自分を知ることを深め、表現の多様性を膨らませてくれています。


二回目「あっ、共感とかじゃなくて」展へ

東京都現代美術館で開催されていた「あ、共感とかじゃなくて」の最終日に、ニ回目の訪問を行いました。そこでは五人のアーティストさんの作品に触れる機会がありました。渡辺篤さんの作品(アイムヒアプロジェクト)を特に目に留めていながら、前回進路を間違え素通り。が、今回訪れることができて良かったです!!

「ひきこもり」についての展示室です。

私自身、数日のひきこもりはありますが、長期はありません。学校は好きではありませんでしたが、冬場はこたつで当時の水銀の体温計を温め、発熱の延長欠席をしていた程度です。子育てでは、学校を休みたくない子がいるんだ!という驚きの経験でした。大学ではじめて学校が嫌だとなりましたが、退学することで、表面上ひきこもる間も無く社会にでました。

この企画、一見関係無さそう…でもなぜかどうしても作品を感じたく、最終日ではありましたが間に合いました。

共感覚と共感力

この「あ、共感とかじゃなくて」は、前回8月末くらいに訪れたのですが、その後、何気ない日々の中で「共感」と言う文字が私の中で拡大されていきました。

図書館で出会った一冊の「共感覚」という言葉。面白い一冊に感動し、他の「共感覚」についての本を検索機から探そうとしたのですが全く見当たりません。面白いと感じた本すら検索されません。変と思いながらもゴリラの暮らしの一冊は読んでしまったのですが。検索した時は「共感力」と間違えて入力していたのです。

「共感力」は相手の気持ちを読み取ることが得意。そして「共感覚」とは、科学的な定義とそれ以外で使用される言葉で違いもあるようですが、クロスモーダルの現象、視覚と触覚、聴覚と嗅覚など五感が相互に干渉する現象とあります。風鈴の音を聞くと涼しく感じるなどです。人によっては文字に色が見えたり、音階に色が見えたり。人に色が見える友人の特別な感覚も共感覚といえそうです。

同じ「共感」でありながら他者とのつながりの「共感力」と、自己の内なる感覚がつながる「共感覚」の大きな違い。

ひきこもりを感じてみる

カーテンに閉ざされた暗い中の展示室。

「たまたま、ひきこもりじゃなかった自分」、「世間で言われるカタチのひきこもり」ではない「ひきこもり者」だった自分に出会いました。

一見普通に人とコミュニケーションを取ります。滅多に喧嘩もしません。露骨に嫌われることも少なかったと思います。

でもそれは嘘を演じられたからなんだと思います。

嘘は、嫌な相手には長年培ってきた自分の中のマニュアルが役立ちます。「心の閉ざし方」を小学生くらいから丁寧に作り上げてきたのだと思います。

年齢を重ねるにつれ、マニュアルは最高の出来!かと思いきや、意外な欠点が発覚です。ひきこもりたくなることが度重なるようになったのです。

心を閉ざす習慣が固まってしまったことは、本当に心を開きたい人に対しても、嘘を演じ心を閉ざしたままになってしまいます。

心を閉ざすわけは、これ以上傷つきたくないからなんだと思います。

心を開きたくない相手には、上手な言葉もスラスラ出せるようになりましたが、心を開きたい相手には言葉が出ません。傷つきたくなくて心を閉ざす方法は、大切に思う相手にほど強力に働くようです。「もしも傷つくことがあったなら」耐えられないのでしょう。

独自の心の閉ざし方マニュアルで、心の中の「他者からは見えないひきこもり状態」の中でずっと生きてきていたのです。

もしかすると人はふたつのひきこもりを経験するように感じます。

ひとつは「嫌な人や場に出会った時」
もうひとつは「優しさに触れ心から大切にしたい人や場に出会った時」

ひきこもりを味わってみる


先日傷つきたくないと閉ざされた心を刺激されたことがありました。

閉ざされた心が少し外の光に触れるだけで、刺激を感じてしまうようです。日焼けと同じように。

このちょっとした違和感、気づかないフリもできます。が、あえてこの違和感に目を逸らさず感じてみると、しばしのひきこもり状態突入でした。

ただそれをも黙って感じ見続けていくと、その先に見たい景色が既にあるからこそ、暗闇に立ち寄っていることに気づかされました。

何も行動せずとも地球は動いています。それは心の中の変化と同じ。心の中の変化こそが雲を変化させ月の変化を起こしているようにも思います。

目を瞑る、黒いカーテンを閉める、そして天窓を開き暗い空を見上げる行動へ。

「黒ではない美しいものを見たい」
その状況設定がひきこもりのように感じました。

カーテンを閉める、目を瞑るとは勇気を持って他者との共感力を閉じ、内なる感覚を楽しむ旅へのスタートなんだと思います。

それは人に色が見える友人との繋がりのように、内なる感覚を楽しむことが自己表現を拡大してくれます。

感受性が強いの意味とは

私自身の感受性の強さに疑問を感じてました。 強い感受性があれば他の人の感情に敏感で「優しい」と。ですので優しくない自分の行動が自分であり自分でなく。離婚を振り返っても、私自身ですら受け入れられなかったのです。感受性が強く優しいならば取らない行動だったのではと。でも感受性が強いから取った行動でもあったのです。

「共感覚」と「共感力」の言葉を知ってからは、私の中での感受性とは、「共感覚」という多様な感覚を受け止める力が強いように感じます。

共感覚、内なる感覚は限界のない感覚です。世間が優しいといわれる表現だけに留まることができなかったように思えます。

感受性が強いとは優しい、という表現だけに縛られていたのだと思います。

共感覚は一見、人それぞれ違うけれども、どこかでつながっています。それぞれの感覚をもっともっと遊んでいいのだと思います。

月から見れば、それぞれの違う表現は、綺麗な色を発色しているのかもしれません。

とっても個人的で自分勝手な感想ですが、あの部屋で感じた表現にありのままで良いを感じ感謝です。


・・・・・

間違いからの多くの気づきが続きます。この日新たな恥ずかしさ全開な驚くべき間違いを残してきました!!また間違った先へ訪れますので物語は続きます。間違いが楽しくなってきましたので行動することも楽しくなってきました。






この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?