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北の魔女が消えた。

寒かった真冬から水ぬるむ早春までのお話。

お隣のリョウコさん(年齢80超)に、私はずっと釘づけだった。仕事から帰ってガレージに車を停めたら、自宅に入る前にまず、買ってきた美味しいものを持って我が家の北側に位置するリョウコさんの家に向かう毎日だった。一人暮らしのリョウコさんだけど、自分から私を呼ぶことはあまりない。私が勝手に頻繁に出入りしていた。だって、リョウコさんが好きだから。


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で、リョウコさんなんだけど。

良い意味でも悪い意味でもおっとりしていて、泰然としている。いつも、周りがいつの間にか動いて、問題が片付いているタイプの人なのだ。しかも天然!そしてマイペース!

玄関にお迎えに来たデイサービスの方に
「今日着ていきたいブラウスが乾いてなくて着られないから、やっぱり行かないわ」
と断るリョウコさん。職員さんはついつい、リョウコさんの気にいるようなコーディネートを考える羽目になるのだった。

「おかしいの、トイレの水が流れない〜」
と大して困った風でもない声で早朝に電話かけてきた日もあった。どうやらトイレットペーパーではなくてティッシュを使っていて詰まらせたみたいだった。
「あら、溶けないの?柔らかくて良いと思ってたわ…」
「お尻には優しいけど、トイレの管には優しくないんだよー」
私はトイレットペーパーをすぐ手が届くところにズラリと並べておくことにした。次に見に行ったら、可愛いらしい包装紙で一つ一つくるんであった。

雨の日にお出かけに誘うと、約束の時間にすごく遅れてリョウコさんは現れた。待ち合わせ場所である我が家のガレージに、それはそれは上質な光沢のあるサーモンピンクの傘をさしてやって来た。リョウコさんは白い百合が咲き乱れたグレーのチュニックを着て微笑んでいる。
「お気に入りだった傘がなかなか見当たらなくて!
お待たせしちゃったわね」
「素敵なピンクだねー。白い百合によく合ってる」
私が褒めると、
「この傘だと顔色が綺麗に見えるのよ。ふふ」
と言って嬉しそうにしていた。

話し方はゆっくりとしているけれど凛としているので、周りはなぜかリョウコさんの思いのままに動かされてしまうのだった。

魔女かもしれない。


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その日は、豚汁を鍋ごと持ってお伺いしていた。
IHコンロにかけて温め直し、汁椀についで振り返ると、リョウコさんは改まった声で私に言った。

「ちーちゃん、私、今度の土曜日に施設に入ることにしたの」
「へ?」
「やっぱり一人きりで生活していくのは、張り合いがなくて。娘にずっとお願いしていたのよ」
私は豚汁椀を手にしたまま、リビングの床に正座をした。きちんと聞かなければならない。そんな気がしていた。つぎたての汁椀からは、まだ湯気が上がっている。

わたしは、私は、ほんとうは、本当は、リョウコさんが寂しいことを知っていた。知っていたけれど、用事が済んだらすぐに帰っていた。きっと、リョウコさんに必要だったのは「これ美味しいねえ」と言いあいながら一緒に食べる人だったと思う。そして、テレビを「可笑しいね!」て言って一緒に笑って見る人。でも、私にはなかなか叶えられなかった。家で娘とおジイが待ってるから。

汁椀から仄かに豚汁の温もりを感じながら私は思った。リョウコさんの願いはほんのささやかなことなのに、どうしてこんなに叶えるのがむつかしいんだろう。

「私がもっとリョウコさんちに長くいられれば良かったのかなあ。行き届かなくてごめんね。あぁ、寂しかったよね」
「いいのよ。あなたにはハトちゃんもおジイも旦那さんもいるじゃない。私が独り占めするわけにはいかないわ」
カレンダーを見ると、今度の土曜日にはリョウコさんの凛々しい字で大きく「入所」と二文字書いてあった。

リョウコさんは、私のセンチメンタルなんて吹き飛ばすようなビカビカの目で私を見た。
「ちーちゃん、私は一人暮らしから逃げるんじゃないわよ。私が選んで集団に乗り込むのよ」
欲しいものは、自分から掴みにいく。リョウコさんは受け身ではなくて、攻める立場なのだった。

私は思い出していた。
スーパーから電話をして、何か必要なものがあったら買ってくるよ、と伝えたある夕方。てっきり洗剤とかゴミ袋とか生活に使うものを頼まれると思っていた私は、面食らうことになった。
「ちーちゃん、甘い繊細なスイーツが食べたいんだけど。どうかしら」
私はケーキ屋に走り、生クリームがはかなくデコレートされたフルーツてんこ盛りのショートケーキを買って帰った。なんでもない平日だったけど、ケーキが降ってわいてきて、娘は大喜びだった。

欲しいものは欲しいと言う。
触れ合いが欲しかったら、触れ合える所に行く。
シンプルに。

「一緒に豚汁を食べよう」
私はそう言うと、もう一つお椀を取って、なみなみと豚汁をついだ。二人でもりもり里芋や大根を噛み締めた。私の心の内を反映しているのか、実に色んな味がして、私は目を白黒させて食べた。リョウコさんはニコニコしている。ふうふう覚ましつつ豚汁を食べながら、私は考えていた。

新生活という言葉って、新入生や新社会人にだけ使うのではないかもしれない。リョウコさんも新生活を始めるのだ。いくつになっても私たちは新しい生活を始められるんだな。


土曜日、出発して行った魔女は、私にプレゼントを置いていってくれた。箱を開けると、夢みたいにはかない生クリームがふわふわのケーキだった。そして、凛々しい字で「ありがとう」とメッセージが貼ってあった。


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入所したリョウコさんは、毎日、廊下ですれ違う人ひとりひとりに What’s your name ? と聞いて話しかけているそうだ。英語で…。
リョウコさんらしい。


北の魔女が消えた。



挿入した画像の引用元

https://unsplash.com/@inset_agency
https://unsplash.com/@lavinhha

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