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JAPANクオリティの弊害

3年前の体験。クオリティと価値について。

日本製のいいところ。
その1つに挙げられるのが
高い商品クオリティだ。
大量消費に対応するため
高度経済成長を経て生産技術があがり、
画一的に均整のとれた完璧な商品が並ぶようになって久しい。

ちょっと曲がっていたり、
欠けていたり、穴が開いていたり。
そんなものは、商品じゃない。
とばかりにB品としてはじかれて、
正規ルートには出回らないし、
基本的に店頭に出ることはない。

わたしたちはもう産まれた時から、
そんな世界に住んでいて、
洋服から食器から、果ては野菜までもが
完璧な''商品''として身の回りに溢れている。

アパレルで''商品''を作っていた私にとっても
クオリティが高いことは当たり前で
目飛びだったり、個体のサイズ差だったり、
ちょっとのバラツキで生産元に返品となり
''商品''としては認められない。

だけど、いつもなんとなく不思議だったのが
インポートの商品は縫製が雑なのに
高いのはなぜか?ということ。

バイヤーさんから縫製が〜と言われる割に、
クオリティの高さと価格は比例してるわけじゃない。

この疑問が頭の片隅にあって形を変えて
スコンと腑に落ちたのが3年前。

モロッコへ行ったときだった。

乾いた土埃に強烈な日射しの中
色とりどりに並ぶたくさんの可愛い物たち。
手作業で作られたさまざまな工芸品。
可愛いものに囲まれ
どれにしよう?とわくわくする。

お土産屋さんは
けっこういいお値段のものもあったけど、
やっぱりひとつしかないお気に入りを買いたい!

そうやって最終的に選んだ絵皿は、
気泡があったり、ユラっと歪みがあったり、
手描き感溢れるものだった。

それで
あれ?と思ったのだ。

え、こんなんでいいんだ。

まあまあのお金を払って、
たくさんのいびつな可愛いお皿の中から、
わたしはお気に入りのいびつなお皿を選んだ。

この時やっと気づいたのだ。
自分ですら''完璧''にお金を払ってるわけじゃない。

選ぶ楽しさ、ここの空気感、あたたかみ。
そういう価値への対価を支払っている。

手作り感が好きな方にとっては
新鮮でも何でもないかもしれないのだけど
ずっと''商品''を作り続けてきたわたしにとって、この感覚はとてつもなく解放的な体験だった。

もちろん使用に耐えるとか、
五感への快適さは必要だけど、
過剰なまでの完璧さにしばられる必要は
無いのではないか。

その価値も、またどんどん変化している。
もう完璧なクオリティに価値のある時代は
とっくに終わっているんだ。
人の喜びは本質的には変わらない。
だけど取り巻く環境によって、
その在り方は変わっていく。
変化する価値について、人の喜びについて、
もっと考えたいと思って、
3年前のことを思い出した。

また行きたいなぁ

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