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弛む(爆踊りポトレ②)

つづきから。

わたしは踊るのが上手な人ではない、と言ったけれど、上手に踊りたい気持ちはある。それはそれは、物凄く、ある。でもこうしてひとりで踊っているとき、上手い下手関係なく踊りたくて踊っている、そういう瞬間ってとても素敵だと感じる。昂った身体が動き出してしまって止められない、そんな状態。わたしはそういう風になっている人を見るのがとても好きだ。まぁ、でもいつも、目にしたらすぐに自分も踊りたくなってしまって、じっくりと見ている暇なんてないのだけれど。

踊っているときにふと目が合うと、だいたいみんなとてもとても素敵な表情をしている。それが好き、物凄く好き。楽しくて堪らなくて、言葉が追い付かないの。(わたしは"言葉"というものがとても好きだけれど、それもきっと、心に追いつけない部分があるからこそ。それを埋めたくて足りなくてもどかしくて、一生懸命に考えたりして、そうして出てくる言葉が好きなの。)

だからわたしは、見ている人に、自分も踊りたいって衝動を起こさせるような人になりたいなって思う。そして一緒に馬鹿みたいに踊りたい。

(休憩中、踊りたい音楽を見繕う。)

それから、今回の撮影で一致した"利害"のひとつに、被写体の顔を写さない……という点があった。友人はこれまでも、"顔の見えない女の子"の写真を撮ってきていて、わたしは、自分の容姿……特に顔に強いコンプレックスがあって。だからそれについてはとても有難かった。きっと、その点の一致が無ければ、わたしはここまで開放的に踊れなかったと思う。

わたしの、自分の容姿に対するコンプレックスは根強い。学生時代、単に醜いことを罵られるだけではなくて、"醜い人間を「可愛い」と言うことで笑いを取ること"にも晒されて、そのときの周りの目や笑い声はずっと頭にこびりついている。だから今でもわたしは、容姿に対する社交辞令的な誉め言葉にさえ身体が強張る。比較的元気なときには、お世辞に対して笑顔で「ありがとう」なんて言えるくらいにはなったけれど。あぁ、生きにくいなぁ、なんて思ったりもする。

でも、撮影後、友人からもらった写真データのなかに何枚かあった、わたしの顔が映り込んだ写真は、不思議と嫌な気持ちにならなかった。気の許せる友人の前でわたしは、こんな風に無防備で居られるんだな、楽しそうに居られるんだな、それをこんな気持ちで見られるんだな。それが嬉しかった。

わたしは優しい人間じゃない。慈悲深くもない。だから当時の刃物のような言葉を、粘ついた視線を、きっと許したりは出来ない。しつこく恨むことこそしないけれど、きっと心のどこかで、良くない死に方すればいい、程度には思ってしまっていると思う(これもしつこく恨む、に入るかな……)。でもこれまでわたしはそんな思い以上に、「わたしがああだったから、仕方なかった」と、歪んだ納得をしてきた。自分のせいにする方がずっと楽だった。でもなんとなく、すこしだけ、友人の目を通して自分を見たら、そんなに責めないであげてくれよ、って、自分のこと、思えるような気もしたんだ。

踊ることの話をしていたのに、脱線したね。でも、わたしにとっては全て地続きなの。学生時代も、踊っているときだけは、自分のこと嫌いじゃなかった。もちろん、全然綺麗に踊れなくて、悔しくて悔しくて泣いたりしたけれど、それでも踊っているときの自分が1番好きだったの。それを改めて、思い出したの。

(突如、ハトを追い回す。)

これをしているときの自分が好き、って話、色んな人から聞いてみたいな、って最近思う。みんなの、好きなこと、いっぱい聞きたい。その好きなこと自体にも興味があるし、そういうこと話しているときって、みんなキラキラしている気がするから。これを読んでくれている貴方も、是非話して聞かせてね。

そして最後に、友人へ。今回の撮影を提案してくれて、ありがとう。とてもとても楽しかったし、ここには書ききれない、色んな発見もあった。ひたすら動き回るわたしを撮り続けて、途中で「うまくピントを合わせられるようになってきた」って言っていたり、撮影後のランチではシャッターの押し過ぎで右手人差し指が痺れていたり……君の"好きなこと"にも触れられて嬉しかった。一緒に楽しめたなら嬉しいな。また行きたいから、おかわりさせてね!

※All photos by 🌱
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