親切地獄論


生き延びるために必要なことは例えば学歴であるとか、職歴であるとかパワポとエクセルの技術であるとかそういったものなんだけれども、マシに生きるためにはそれだけでやっていかれない。

むしろ生き延びるための技術が蓄積されればされるほどに人生は、人生というものはどうしてか相対的にはマシではなくなる要素がある。マシではないことと、「死」が天秤に掛けられている。そんな天秤があり得てしまう事が、地獄の門の蝶番が取れてパカパカになっている現代を端的に説明しているんだけど、シンプルに回避する方法もある。それは、ただ一つ無職でいる事を幸せに感じられる才能があること。それだけで良いのだが、そんな才能はごく一部の限られた天才にしかない。当然私にもそんなものはない。やっていかなければならない。


でも、どうやって?


そもそも、どうして土台からして理解に苦しむような天秤で「死」を秤にかけるような事がまかり通っているのか。考えてみると、それは「マシ」と「死」がセットになって知らないうちにパッケージ販売されているからで、そういうものが私たちは大好きである。憎んでもいる。それは例えば、コンビニエンスストアに敷き詰められたおにぎりの形をしている。ソシャゲで貰える無料のルビーとかがそうである。タダで貰っているのに「マシ」と「死」のハッピーではないセットを購入している。購入とは契約のことで、「マシではない&生」or「マシ&死」という二択が当然の問題としてファミレスのメニューや週刊誌の表紙や果てはジャポニカ学習帳の表紙にまでも薄っすらと印刷されているということになる。もう少しくらいはマシでありたい。マシであるかどうかという考えを契約上喪失するよりも前に。

私は地獄について真剣に考えた。現状、蝶番がパカパカになってしまっているとして、パカパカではない頑丈な扉の向こうには何があるのか。そこに行った人はどんな感じになるのか。そうすると、さほど地獄は悪いところではないという事が次第に解ってきた。そもそも現状で地獄の蝶番がパカパカになっているんだから当たり前だった。地獄は人類の敵対的装置として存在しているように思われがちだが、実際は人類社会をよりよく運営・発展させる助けとして機能している親切テーマパークである。わざわざいかにも怖そうな外見の鬼が、怖そうな形状のトゲトゲの棒を持ち、いかにも怖そうな血の池、針の山など誰にでも分かる恐ろしいアトラクションを運営している。賽の河原など、石の山が完成しそうになるタイミングを見計らってわざわざ崩すという人間が大好きとしか思えないきめ細かいサービスをやっている。切れない蜘蛛の糸を辿って地獄の淵から現世に戻ってきた人間は、このように申し上げる。



「生きてる方がマシ」


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