〜なぜ現実に横たわる野蛮な問題が少女漫画に描かれるのか〜 「ハッピーマニア」への著しい信頼

〜なぜ現実に横たわる野蛮な問題が少女漫画に描かれるのか〜
「ハッピーマニア」への著しい信頼

(※漫画のラストシーンについてのネタバレがあります)

安野モヨコの「ハッピーマニア」という漫画をご存知でしょうか。

私自身大人になってからいかにすごい漫画であるかということを力説されて手に取ったのですが、確かにすごい漫画ですこれは。特にラストシーン。

結婚式でウェディング・ドレスを着たまま「彼氏欲しい」と絶叫して終わる。なんなんだコレは。


全体的になんなんだよ。


この漫画に限ったことではないけど漫画の中くらい他人を見下さずに愛せる関係を描いてもいいはずなのになんだか恋愛というものの描かれ方自体が全般的に野蛮である。フェアではないものが恋愛と認識されているようですらある。野蛮な快楽と理性的なフェアネスという理想を巡る激しい戦いが勃発している。なぜ棍棒で殴り合うような侵害的求愛活動に強い快楽があるのか。例えば食事には常に文化が寄り添っていて、テーブルクロスを引っぺがして貪り食うような快楽もありうるだろうが、そんなことを実行する人は誰もいないのに。恋愛においては厨房に殴り込んで調理中のシェフの気まぐれを簒奪するような野蛮さが時に好まれたり実行されたりというところがある。侵略する/されるという他者への関わり方、「敵」という規範、境界線によって他者を認知するモジュールによって同一化への欲望と敵意が同時に駆動している。だから最も憎い男にそれと分かって最も激しく欲情するということが繰り返される。この敵対・侵略・同一化の欲望喚起システムは資本主義社会の消費幻想によって引き起こされる欲望の喚起と同じであって、欲しいものを常に探し続けなければ主体性を維持することが出来ないという共同幻想を通して世界を認識している。これを突き詰めていくと敵対・侵略・同一化の矛先は自己そのものと敵対し同一化しようとする欲望になっていく(エステ・脂肪吸引・整形、自分を殺して自分と同一化する欲求)が、他の安野モヨコ漫画と比較してカヨコは自己同一化の欲望が感じられない。POPで底抜けに明るくて間違っていない。

何故ならばカヨコは性欲が強い。だから消費幻想に惑わされずに常に一直線に男そのものに突き進む。信用できる類稀なる露骨な性欲。カヨコは世界に対して「敵/自己」という認識しか出来ない為に最も嫌な敵に無謀に挑み続けるしかないのだが、底なしの性欲によって逆説的に自己認識が強固になっている点に救いがあって、カヨコをカヨコ足らしめるもの、この混沌とした欲望するもの/されるもの/価値がないものだけに満たされた殺伐としたしかばねに満ちた地平で直感的に正しい。それは同時に常に動的でいなければ即座に自己認識が失われるということでもあって野蛮さで野蛮さを克服しているとしたらそんなもの克服と言えるのかよ、と思わずにはいられないんだけど、やっぱりカヨコを信頼したい。何故ならば、システムが人間を飼いならしていることがいよいよ露骨に判明した現代にとってもカヨコの戦いは全く他人事ではなく、むしろより深刻に迫り来る予断を許さないより一層切羽詰まった渦中に、もしかしたら切羽詰まっていられるようなフェーズは既に過ぎ去っていて(残念ながらその可能性が高いけど)緩やかな自己認識の喪失、自立の放棄、管理される正当性を自ら論じ始めるような接続されることへの従順さを極めてスムーズにシームレスに獲得し始めているのであって、やはりカヨコくらい野蛮で粗暴で性浴に満ち溢れて諦めることを知らない女にしか対抗できないのではないか。

何故ならシステムというものはとてつもなく野蛮で粗暴だから。



安野モヨコについて語りつくす配信イベントをやります。

https://twitcasting.tv/loftplusone/shopcart/70994

5月9日13:00〜 5月22日までご覧いただけます。

本気なのでよかったら観てください。


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