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真実は、いつもやりすぎ

 家にいる時何をしてるの? 

って聞かれると、私は大体ドキュメンタリー映像を見ている。
特に『プロフェッショナル 仕事の流儀』をよく見ている。今日は菓子職人の回を見たが、とにかくすごかった。なにがすごいかのか。

 突然繁盛店を畳んだ伝説の菓子職人。多くの人に惜しまれつつも、初老の彼は夫婦で週末だけ営業する小さな店を始めた。今までの慌ただしかった仕事を忘れるように、平日は1人だけのアトリエで作業に没頭する。日が差し込んでくると、飴細工が透き通るので、手を止めてじっと見つめる。前触れもなくアトリエの時計が誤作動を始める。老職人は作業の手を止めず、何も気にしない様子で笑い、「壊れてるんじゃないかな。私と一緒。合わさってない、止まってないもんね」と言って、淡々と作業を続ける。理想的菓子づくりの世界に入り込んだ老職人の後ろでは壊れた時計が狂った時間を刻み続けている

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
「人生遠回りも悪くない パティシエ・西原金蔵」
2021年7月13日放送回より

やりすぎである。

 

中村屋!!!!!!!


うおーーーーーーー!!!!!!


Adidas!!


 これはもう、ドキュメンタリー歌舞伎と言っても差し支えがないかもしれない。
ピュリツァー賞の動画バージョンがあったらこれだろう。激怒している人の背景で、本当に偶然富士山が噴火しちゃっているような絵的インパクト。
 結果的にこうなっただけなのに、被写体の生き方が度を越して誠実過ぎた結果、劇的に分かりやすくて、やりすぎている。

 ここまでうまい映像が撮れてしまうと、陰謀論の人が「やはりこの世界は全てが演じられた箱庭」とか言い出してしまうかもしれない。映像表現って総合芸術と言われたりもするから、なんでもできる万能の表現媒体に思えてしまうけど、当然不得意な描写もあって、具体的にそれは内心の描写である。
 不得意というか、別に文字も音声も使えるんだからナレーションで全部説明してしまうことも可能なんだけど、映像表現自体が歌舞伎や能や宝塚みたいに観客の間で共有されている、ある一定の読み取り方の文脈を前提に、あるいはその文脈に接近したりあえて遠ざかったりしながら総合的に見せ方を演出して伝えるメディアだから、意外と制約が多いのだ。
 歌舞伎の制約が歌舞伎を面白くしているように、映像表現もこの制約の多さを踏まえた上で作っていったほうが基本的には面白くしやすい。最近では全部セリフで説明した方が分かりやすくっていいという風潮もあるけど、エヴァⅡ:みたいに碇ゲンドウが内心を全部親切に説明してくれると、分かりやすい反面それはそれで「せっかく映像なのに全部言葉で説明されてしまった」って感じの、ちょっと情緒を壊されちゃった雰囲気にもなる。だから、個々の鑑賞者が映像の文脈を踏まえて解釈を加えながら読み取れるようにはなっているんだけど、同時に過度に説明的でもあると、映像の世紀とSNSの世紀の過渡期(後半)にある今の時代の映像としてものすごくいい。ドキュメンタリーを作る人は、基本的にはこんな絵が撮りたくて仕方がないはずだ。

 とはいえ、「映像的な文脈で読み取れるようになっているのに同時に過度に説明的」って条件が互いに矛盾しているからそうそう撮れない。そうそうというか、普通に撮影したところでさっぱり全くからっきし撮れない。だから一般的には読み取ってほしい描写に説明的な描写を編集してなんとかいい感じに折衷的なバランスが取れる演出を加える。映像の編集には不思議な魔力があり、最初から最後まで一人の人間が編集をしていると、編集した人の視点が映像全体を貫通して、例えば「話者のパーカーの紐の長さの左右の不均等さ」とか、そういう些細な画面内の事情が雄弁に画面に映っている人間の人間性を物語始める。ドキュメンタリー作家は、ある程度性格に難がある方が向いている。だから私も向いていると思う。

 世の中の事象というのは、全てが緩やかに連続した包括的なものとして眼前に現れ、分離独立した形で切り取りようがないので、視点をグッと一点に定めると、関りのある全てが、ある一つの因果に収束していく。その因果をどこに定めて、どれほどダイナミックに因果の糸を回収していくのかという切り口と手腕がドキュメンタリー映像の見どころだと、言ってしまうこともできる。この因果と事象がもつれたりからまったりしながらある瞬間、日食のように完全に重なり合うシーンがあるドキュメンタリーは最高。私は淡々とした冷静なタッチのドキュメンタリーよりも、このような独自視点出しのドキュメンタリーが好きで仕方がない。

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