この世はシンプル宝島

 チョコパイ的なるものが食べたいと俄かに思い立つ。ものの5分もしないうちにチョコパイを購入するために自宅を出ている。コーヒーを淹れたいなという気持ちのまま半日が経過してコーヒーを飲んでも無意味な時間帯になっていることだってよくあるのに、チョコパイ的なるものに対してかなり機敏に反応している。チョコパイ的なるものとは、つまりチョコパイであってそれ以外の何物でもない。北朝鮮ではチョコパイが通貨として取引されていると言うではないか。チョコではなく、チョコパイが。

あの有名音楽家モーツァルトは幼少期に貴族からのプレゼントの山を見て

「チョコレートとお菓子の山だ!」

と評したことがあるそうです。確かにチョコレートはお菓子という分類では語りきれない性質があります。チョコパイにもチョコレートという分類では語りきれない独自の性質を兼ね備えていることは疑いようがない。だったらわざわざチョコパイ的なるものをと所望しなくたってああチョコパイが食べたいなあという気持ちでいればいいのに。なんでそうはならないのかと言うと、それだとエンジョイ係数が当倍値(×1、こうかが ばつぐん でも いまひとつ でもない状態)になってしまうからです。

エンジョイ係数のことはご存知でしょうか、存知ではないと思われます。
なぜならこれもまた私が考案した独自概念であるからです。

これは、物事の楽しさの総合値(エンジョイ指数)にはそれ自体の持つポテンシャルの他にポテンシャルに接するところの人物が内在するエンジョイ係数というものが大きく関わってくる。
従って、生活においてより丁度いいエンジョイ指数を得ていくためにエンジョイ係数の自認と数値化、これが最も重要になってくるという「エンジョイ理論」の概要なのであります。

忘れてはならないのが、このエンジョイ指数、つまりエンジョイの総合値は大きければ大きいほどいいという事もなく、むしろ小さい方がいいという事もあらず、状況や空間に合わせてベストな数値があるということです。

例えば「初デートでは面白すぎる映画を見ない方がいい」とされている論があります。これはエンジョイ理論に言及するものと考えて間違いありません。つまり

映画自体のエンジョイ指数 > 初デートのエンジョイ指数

という不等式を堅固しなければデート行為全体に何か失敗のようなムードが発生するから気をつけろ、という先人からの知見と思われます。だからといってつまらない映画を観るのは当然嫌でしょうから、エンジョイ係数の存在を知っておくと大変便利なのであります。

この場合は映画自体のエンジョイ係数を低く保ちつつ、デート行為全般への係数を高めていく事である程度面白い映画を鑑賞しつつ行為全般におけるトーンを高く保つことが可能になるでしょう。


実際に食べたいのはチョコパイなのに、なぜわざわざ「チョコパイ的なるもの」と、ワンクッション置いた想起するのは、答えが余りにも露骨に記されていると唯一の正解・真実に至った時の感動が薄れるからであります。あえて余白を残す。この作戦は余りに露骨であるのでやりに行っていると言っても過言ではありませんが、そんなことを気にかけている場合ではない。真実がチョコパイではない可能性を想起させておくことで、実際にチョコパイを食べた際のこれでしかない脳内物質の整合性、またこんなに整合性が取れた出会いが文明の利器によってもたらされた不遜極まりない飽食の産物であるという点を加味すると、エンジョイ係数10(※)は軽く到達します。その上、味わうのがそもそも中毒性が高いチョコパイですから。お分かりになりますでしょうか?
覚醒剤などはエンジョイ係数を知らない情報弱者の侘しい晩餐に過ぎないということを。真の覚醒を、我々は既に渦中に収めているのだということを。勝者は常に戦わずして利権を手中に収めているのです。

(※葛西臨海公園から外界から隠蔽されているはずのディズニーランド内部がチラ見えてしまった際のエンジョイに相当する)

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