解像度が高ければなんでも見えるのかといえばそうではない

「解像度が高い」という言葉をよく聞く。


いつ頃から頻繁に使われ出したのか。はっきりとは分からない。


少なくともPCが一般家庭に普及した後だろうし、もっとフツーに用いられるようになったのはスマホが普及してからだろうと思われる。我々は日常的に画像解像度を気にかけている。

iphoneは新型が発売されたところで特にデザインが大きく一新されるような事はないけど、SNSに写真をアップロードした時に画素数の違いで最新の機種を使っていることが伝わってくる。それくらい我々は解像度をつぶさに気にかけているということだ。


ここまでだったろうか。


私が生まれたのは経済成長の終焉でありまた昭和の終焉でもある1988年だが、それ以降も恐らくそれ以前と同様にオリンピックが開催される度に大型テレビが熱を上げて販促をされ、画素数や新たに浮上した「K」なる概念なども盛んに広告された。「K」とは。いまだによく分からないけどありがたいもののようだ。確か家電量販店の店員が、「K」は「K」ではないものの9倍くらいの良さがあり、段違いであるといった旨の話を熱心にしているのを聞いたことがある。あたかも「K」ではないテレビは今後、地上波導入後のアナログテレビのように何も映らなくなるような口ぶりであったが、そうでもなかった。私の家のテレビはいまだに「K」ではないし、付けると番組は、映る。


「K」とはなんだったのか。もう理解するチャンスはないだろう。仮に私が「K」のテレビを購入したとしても。

なぜ理解する動機が発生し得ないと断定できるのかといえば、これ以上同じ大きさの画面内で密度を上げても大きく体験的な変化が起こらないことを理解してしまっているからで、それはプレステ3が発売された時にこれ以上ゲーム上に描画されるポリゴン数が増えてもゲーム自体の臨場感・没入感が増大する事はないのだろうと、大半のゲーマーが同時に察したムードに似ている。


一方で、スマホに表示される画総数への欲求はいまだに上昇し続けている印象がある。スマホ、というかSNSに掲載される画像の解像度、画質への欲求といった方がより具体的だろうか。過剰な画質への欲求。それも、テレビや家庭用ゲーム機における技術の進歩というバックグラウンドストーリを根拠にした欲望よりもずっと肉感的で直感的な欲求であって、それは「センス」以外のほとんどすべての市販され得る商品がコモデティー(日常)化した2020年代の日本国内の市場経済の中で、かなり異質に感じる。


どうしてスマホ画面に映る「像」にばかり画素数が希求され続けるのか。



この問題を考えるときに同時に持ち上がってくるのが、冒頭で述べた近年『解像度』という言葉が一種の比喩として汎用的に用いられる現象だ。

例えば

「解像度の高い表現」

「解像度が低い捉え方」

「解像度の高い人には伝わる表現」


など、主に

ある物事を受け取り解釈する主体が、どの程度の観察力・深度・想像力を持ってものごとに向き合っているのか、その大まかな程度を高・低で表す指標

として用いられる。

確かに、例えとしてはかなり秀逸だ

例えば歌手の一青窈さんがいたとして、一青窈さんを表示する個々人のスマホの画面には各々の環境に従って異なる画素数で一青窈さんが表示されているのだが、だからといってそれは一青窈さん本人の能力や意思とはなんら関係がなく、受け取る端末の能力や機能の問題であるという論点が、語弊なくスムーズに伝わってくる。

だからといって。

受け取る側の注意深さや観察力が、単に高低で表される「解像度」に一本化して例えられていること、またそれが普遍的な表現としてあまりに広く用いられすぎている現象が、はっきり言ってしまえば不可解である。


解像度が高ければなんでも見えるのかといえば、全くそうではない。

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