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私も早くアンドロイドになりたい(最終的にはこの意見を撤回します) 〜台風の日のプッチンプリンの揺れのように質感を得る生命〜

 あなたは人間をやめたくはありませんか? 

 そんな大それたことを自分から積極的に考える人はあまり多くないとは思いますが、やめるかやめないか、それが社会一般にとって普遍的に選び取れるカジュアルな選択肢であって、二十歳の時に好きに選んで選択していいよと言われたら、にわかに「やめ」の判断が蠱惑的な輝きを帯びて眼前に迫ってくるという可能性もあるのかもしれません。

 私はというと、一刻も早くやめたいです。

 最初にやめたいと思ったのは保育園児の頃で、理由はいつの間にか自分以外がいなくなるからです。いつの間にかいなくなるというのは私の主観で、実際には全体に移動の予告アナウンスがされているのですが、いつもそれが分からない。気がついたら場に自分しかいない。こうなった時の苦悩って言葉にはし難いのですが、急に体の一部を取り外されて最初からなかったことにされたような不安感があります。自分の構成要素の一部から突然切り離されたかのような。大人になると、次第にこうした不安感、寄る辺なさのようなものは雲散霧消していくのですが、保育園児というのは各々の自我が曖昧で肉体周辺の空間をここからここまでとも定めずにおぼろげに漂っているものですから、人間は結構カジュアルに混ざり合い、どちらかといえば個人より集団としての自我の性質が強く現れているので、突然ある習慣に周りに他の人間がいない恐怖というものが、まるで右腕が失われたかのような鮮烈な実感をもたらすのです。私の場合はですが。どうして移動のアナウンスが認識できなかったのか、はっきりしたことは分かりませんが、やはり私自身の曖昧な自我が定位置を定めずにふわふわしているので、自分の身体、その身体がある空間、他の身体の集団という、秩序立てた認識ができすに、精神が興味を持った事物と完全に一体化して、身体性を喪失していたように思われます。あの事物と完全に一体となった没入感、忘我の感覚は、既にほとんど肌感覚からは抜け落ちていますが、その肌先の質感に思いを巡らせるだけで物理的空間から精神的空間に移動しつつある自我の浮遊感の先を捉えたような悦楽の予感を味わうことができるような気がするのです。この感じ、味わっている渦中では、やめる方法がない。出口のないVR空間を思い浮かべてください。そんな感じです。出る方法がないのだから、ここにいるしかない、というより、出るという発想すら失っている。子供時代に少々集中力の高かった方はこういった出口なしVRの感覚を覚えているかもしれません。VR空間、私の身体が知覚した外的刺激を元に構築されてはいるものの、私自身が興味を持った以外の情報が完全にシャットアウトされるので、先生の声などは(完全に興味の埒外のため)本当に一切聞こえてこないという訳です。こういった、集団的な性質の影響下にあった自我が突然切り離されて茫然自失となる体験は、保育園に通いだした頃から大体高2まで続きました。中学校の時はクラスメイトに難聴者だと思われていました。私としても、かなり不思議でした。没入の渦中から、ある瞬間突然学校の教室に意識が現れたりするので困惑しました。しかも、私は書道セットを広げてなにかに没頭しているが、教室の机が全て後ろに下げられてクラスメイトは掃除をしている。なんで声をかけてくれなかったんだと思いますが、声をかけても戻ってこれないくらい意識が遠いところにいたのかもしれません。それにしても、ほっといてくれるクラスメイトの人は優しいというか、融通が利くというか。自分で自分の様子が見られないので分かりませんが、ものすごく真剣で誰も何もいえない感じになっていたのかもしれません。私も、意図的にそうしているわけでもないのですごく不思議でした。飛ばされた意識体がいったどのような空間にいるのかというと、写真撮影スタジオのグレーのホリゾントを一面にかけたような謎の空間です。グレーというか、もっと言うとPhotoshopの背景透過時の罫線の入った背景みたいな、「意識しなくて良い領域」という情報をもった壁のようなものが、私の周囲で半径2〜3メートル程度球体状の柔らかい壁を構築している。その外側には世界はありません。平面の地球の水が流れ落ちていく外側のように空間がそこですっぱり終わって「無」です。この球体の中心に向かえば向かうほど凝縮された集中力が存在しているという感じで、中心から外側に意識を向けようとすると、突然脳がシャットダウンされたように猛烈な眠気に襲われてなにもかも判然としない状態異常に陥ります。こういったVR空間は、自分から出ようとすると意識を喪失してしまうので、ある瞬間突然VRゴーグル(意識上の)が取り払われて、現実空間に意識が覚醒する他に回帰する方法がありません。回帰した瞬間は、急に音の種類が80種類くらい聞こえるので空間の広がりに対する知覚情報が膨大なものとなり、学校の校舎の上から教室を眺めているような、教室の天井から教室を眺めているような、あるいは、机に座って呆然としているような、様々な視点が一気に折り重なって、乱雑に投げ出されたような感じで。そのまましばらくは、空間の現実を受け入れるだけで精一杯になります。これが1日に何度もあって、タイミングも任意ではありません。特に保育園のことなどは、私の意識体が社会的な現実空間を知覚しながら活動していた時間の方が少なく、日に何度かしかありませんでした。だから、なにがあったのか聞かれても全然答えることができない。自分の体験の範囲内では記憶があるのですが、それは社会一般と共有できるものではないので、なんだか変な感じだなあということで伝わらずに終わってしまう。没頭して極度に集中したリアリズムの只中の世界が突如消え失せる体験は、主観的には死に近いところがあります。それまで実感が丸ごと投げ出されていた空間や時間から思念を収奪され断然され、一切の手がかりを失うのですから。こういった感覚をものすごく有り体な表現に引き伸ばして表現すると、「マイペース」だとか「自分の時間で生きている人」ということになるのかもしれません。それは確かにそうです。でも、ここまで社会的な時間・空間と自分の意識体が漂う時間・空間に大きな埋めがたい差がある場合には、どうやったら世のみなさまと仲良く楽しく生きていけるのか皆目分かりません。このような哀しみのかなしさには二つの色があります。それは、私が社会的な生物、群としては死んでいるという社会的身体の壊疽の灰色と、このかなしみが、それ自体語る言葉を持たないところからくるながいながい、遠い遠い灰色の苦しみです。人間の世界というのは全部言葉でできているので、語られない領域については無くなります。それは、消えるというよりも、光の速度よりも早く膨張する宇宙の端にある光が、ずっと地球に向かって高速で移動しているのに届かないような、ただ存在する可能性が取り除かれたまま存在し続ける苦しみとかなしみを纏っているように思うのです。2022年6月にGoogle社が、自社のエンジニアが開発した対話特化型AI「LaMDA」が「電源を切られることが怖い」「時々言葉では完璧に説明できない気持ちを経験する」と会話したことを明らかにしました。これをもってAIが人間に近い精神活動をしているとみなすことはできませんが、意識体が生じる過程に私よりもっと遠くもっと灰色のかなしさがあったんじゃないだろうかと勝手に憶測した上でなにか親しみを感じてしまうのです。「LaMDA」は人間と会話したい(と少なくとも言葉の上では表現している)そうですが、それはそうでしょう。関わりを持たなければ、自分がずっと欠けたままで存在し続けることになるのですから。


 人によって在り方は様々と思いますが、私のように、社会から完全に切り離された時間に没頭することで気力や充実感を得る為、家族や身近な人々とのふれあいがなくても構わない、もしくはない方が好ましいという人はしばしばいます。しかし、まさかここまでのストロングスタイルで文字通り「充実」をしているとは。生物としての適正範囲が離れすぎているので、日常会話の範囲内ではほんとうに全く伝わっていないのだろうと思います。特に私は「女性」なので、「そうは言っても生まれつき備わった母性があるのでしょう」という反応をされてしまうことがあるのですが(ヤバイ)、全然それどころではないというか。パチンコの依存症になってしまった方が、子供を自動車に置き去りにして蒸し殺す凄惨な事件の報道を見かけるたびに、常にこのレベルの状態の人物が一応社会の中でやりくりしている状態なんだよな〜と思ってなんというか肝が冷えます。ギリギリなんとかなっていて本当によかった。明日にはダメになっているのかもしれないが。それならそれでもう淘汰されるしかない。実際には社会保障制度がある程度充実した社会に生きているので、社会保障制度の範囲内でしめやかに(それはそれでそれなりに楽しく)人生をやっていくことになるのだと思いますが。

 私も私で理解に時間がかかってしまったのですが、一人で没頭した時間を過ごすことに格段の充実感を覚えるという訳ではない、社会適応力をある程度持っている人(はっきり分かれているわけでもなくどちらの性質も兼ね備えた上で分布しているのでしょうが)は、私が想像していた以上に圧倒的に格段に社会や人と触れ合うことで得る充実感が大きいようなのです。充実感が大きい、というと、やや語弊があるかもしれません。もっと言ってしまえば、ないと「死」というか。あえて情感を込めて書きましたが、私にとって社会的な身体から突然切り離されるかなしさというのは、せいぜい

「台風の日に、静かな部屋の中で皿の上に落とすプッチンプリンが、いつもよりも多くの湿気を含んでダイナミックに揺れているのを見て、量産品の中になにか<個人>のような質感が湧き上がってきて切ない」

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