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素直最高実践論 〜水野式念仏「即三元」〜

 私は生活実感の中で生掴み取りにしたこの世の攻略情報をよく書いているのですが、ここ一年で、私が最もこれなんだよと確信に至ったシンプルな攻略情報といえば、もう、これです。声を大にして言いたい

素直最高


 攻略情報というにはあまりにもシンプルですが、この四文字で人生の指針は全部決めてしまってOKなんです本当は。

 なぜならば、精神的にも物理的に金銭的にも最短距離でシンプルに自分のやりたいようにしていけば、当たり前ですが人生がどんどん最高になるからです。素直に告ったり、素直に誘ったり、素直にやりたい仕事をやりたいと言ったり、素直にオーディションを受けたり、素直に笑ったり、素直に沈黙したり、素直に勉強したり、素直に好いたり嫌ったり、素直に意見を伝えたりということをしていると文字通り最高。素直なので全てにおいて話が早いし、また向いてないことでも変にもったいつけずサッとトライしてみることで、できなくても内心の執着が「解決」して変な念が後を引かないし。それに自分の素直に対して都合が悪く感じる人はサッと身の回りからいなくなるから、全体が総合的に最高と言える状態になります。色々ないいことが同時多発的に起こり続けるので「最高だな〜」という自認になると言ったらいいでしょうか。

 これの逆、つまり、素直ではないので最高ではない状態とはこのような感じです。

・誰にとっても無益な建前のためにタイミングを逃し続けている
・自分から積極的に動くのを避け、人からのオススメ・斡旋でどうにかなりたいと考えた結果、全てにおいて緩やかな順番待ちのようなライフスタイルが板についてしまっている
・笑っている時に、この笑いは「アリ」か「ナシ」か気になって気持ちに集中できない
・なにかを買う時にコスパが最もいいと判明しないと安心して買えない。得をしたいというよりも、損をしたくない。それ以外の判断基準がよく分からない
・今自分が発言していることが「正しい」かどうか、いつも若干気になる
・ひねくれた視点で発言をする他に楽しみがなくなりつつある

別に最悪ってこともないが、最高とは言えない状態。最低賃金はギリ保障されてるくらいの。どうしてこうなってしまうのか。
 
 現代において素直に行動するにはかなりの困難が伴います。なぜなら、インターネットを通じて、全ての行動・発言の評価フィードバックを得ることができるから、素直な行動は防御力がゼロのような感じがある。ある程度の「分かっていますよ感」を出しておいたほうが安全な気がする。誰もそんなこと気にしてないのに。

 日本人は貯蓄を投資に回さない国民性なので、そのような気質を「セルフ経済制裁」とか言われることがあるそうですが、この場合「セルフ素直制裁」と言ったらいいのでしょうか。私自身もインターネットをやりすぎた青春を過ごしたので、このようなセルフ制裁活動はかなり分かる部分があります。素直でやっておりますと難癖をつけられそうな気がしてしまうし、少し気をぬくと自分以外の事情をつい考えすぎてしまうし、つい遠慮をしてしまうし、ある程度先回りをして気を使った方がいいんじゃないかとか勝手に考えてしまうし。

 こういった行動原理は世相を考慮すると当然理ですが、人は他人の「分かっていますよ感」には心底興味がないので、得るものがありません。同時に、素直でやっているといろんなものがバレバレになってしまうような気がするものの、「分かっていますよ感」を出したところで結局バレバレというか、「感じ出してるな〜」という形のバレをしているだけなので失うものもありません。(むしろ素直でやっている方がバレバレにならない)

 素直最高を意識的に実践するようになって気が付いたことがあります。こういった考えの裏には「素直なんてやりたいと思えばいつでもやれる」という甘えや、素直を軽く扱う侮りがあったということに。そんなことはありません。素直の道は険しく、深い。文字で見ると、つい簡単にできそうな気がしてしまいますが、素直は「分かっていますよ感」を出し続けるよりも、実は圧倒的に困難なのです。

なぜならば、素直に行動するためには、心の「実力」が必要だから

 要するに、人は自分の欲しいものとか、やりたいこととか、望ましい環境とか、目の前のことに取り掛かる根拠とか、そういうことが全然分からないまま、分かっていないことすら気付かずに「実力」よりも共感が重んじられる世界を生きているので、素直が実はすごく困難であって、最高が誰にとっても等しく得難いものになってしまっているということです。


・実力(独自定義)とは


 私は「実力」という語を

ネットレビューやオピニオンリーダーの意見などに頼らず、自分にとっての面白さ、クールさ、オシャレさ、うれしさ、楽しさ、気楽さ、快適さ、その他言いようのない良さ、あるいは最悪さなどを見出す能力

と独自定義しています。元来ですと、実力とは技術力や知識などを指す意味で用いられることが多いですが、通信の発達によって技術や知識の習得のハードルが格段に下がった現代では、技術や知識が豊富でも≒「実力者」とは限りません。

 かつての技術力が高かったり知識が豊富な人が、概ね「実力者」だったのは、技術を身につけるのが困難だった時代にあっては、習得に熱意が必要だったからです。熱意があるとはどういうことかというと、自分の中に明確な動機、オリジナルの根拠があるということです。

 独自の根拠があることで、どういうやり方がいいのか検討したり、不要な過程は省くなどの考察の過程をたどることになります。これが総合的な「実力」つまり、最終的には形式にこだわらず自主的に環境や文脈を定義しうる根本的な能力を育むのだと考えています。実力とは、メソッドに反するものです。例えば、料理研究家の土井善晴さんが「てきとうでええんです」と平気な顔をして言えるのは「実力」がすごいからだと思います。

 この視点で考えると、現代は最高効率で能力を身につけるメソッドや環境や技術を代替する無料アプリが無料で無尽蔵に手に入りますから、昔の人と比べるとやりたいことが生涯に一つとかでなく、いくらでも、何歳からでも、どんな環境でも始められて最高である一方、物事を始めるにあたっての動機や根拠が丸ごと欠けている事態がしばしば発生します。動機や根拠の代わりに「いいね」などの他人からの反応があれば始められるからです。

 お金を使う時にも「実力」は顕著に現れます。無料でないものを手に入れるのには確実に一定の「実力」、つまり価格に釣り合うだけの独自の根拠を自分の中に見いだす必要があるからです。動機を見いだすことができないとなると、最もコスパがいいものを探して買うことしかできません。本当は、もっと最高になれるものがあるかもしれないのに。というか、あるはずです。

 我々はつい身につけた技術や知識や使った金銭の量に対して、ドラマ『水戸黄門』の紋所のような寄りかかり方をしてしまいます。

 買ってるってことは買うだけの「実力」が自分にはあるはずだから、何か自分の中にそれだけの根拠・動機があるのだろう。知識や技術があるってことは、それなりの根拠や動機があるのだろう。こういった逆説的な動機の錯覚により、いつの間にかそこまで好きでもない技術を身につけるために投資をしたり、そこまで好きでもない美術館の企画展に足を運んだりしながら、ほとんど手品のような認知トリック的段階を経て、素直が分からなくなっていく。私はこうなるのが怖いので、美術館や展示に行った時はあんまり写真を撮りません。ある時展示物の写真を撮ろうとして、今、自分は写真をツイートするために展示に足を運んだのか、本当に行きたかったのか、ギリギリ、あと一歩のところで分からなくなりかけたと自覚した瞬間があったからです。あまり写真を撮らないようにすれば、写真を撮るためにさほど興味のない美術館へ行ってしまうリスクを回避できます。映画や読んだ本なども同様で、読んだらSNSに載せるということを毎回していると「見られ方」や「やってる感」の為に読書をする羽目にいつ何時陥るのかもわかりません。恐ろしい。

 このような、半ば混乱の渦中で「素直最高!」を実践しようとしても悪いインターネットのカモになってしまうので、やはり素直を実践する以前に心の実力を身につけていかなければいけません。既に生き馬の目が抜かれた状態がデフォルトとなり、常に中空を大量に漂っているのが現代のインターネットだと考えていただいて全く相違ないのです。だから自分に動機を与えてくれようとする人を見てすぐに安心をしてはいけません。その動機が欲しいかどうか、自分にとって意味があるのかどうか考える必要があるのです。

・「大変じゃない?」

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