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うつ病の障害者手帳持ちも幸せになれるらしい


最近は恋人の話ばかりしている気がする。それほど私は幸せの中にいるのかもしれない。しかし、障害者手帳持ちも幸せになれるのだと思うとどこか不思議な感覚が否めない。


ここ最近は自殺未遂していないのかと言われれば、何度かしてしまっている。それでも幸せだと言えるのだろうかと悩んでしまう。愛する人がいようといなかろうと私の自殺願望はやめられない。死ぬことを恐れて自殺行為をし、後悔に苛まれるがそれでもやめることは決してできない。
彼の哀しむ姿をみせることになったとしても。


障害者手帳を貰い約一ヶ月が経とうとしているが、持っているからといって何かが変わる訳では無いはずだがこの間それを盾にしているのは良くないと職場の先輩に言われてしまった。
私はそれを盾にすることで自分を守ることに必死なので、それに対しどうこう言われた時に無性に腹が立った。私の何を知っているのだと思った。死ぬことを選ぼうとしたと吐かしていた人間が、私の現状をとやかく言える筋合いはないはずだからだ。だが、それは私の事を案じて言ってくれているのだろうと頭ではわかっている。しかし、それとこれとは別なのだ。
同じ境遇ではなくとも、それでもどこか似ているところがあると思い仲良くなれたと思っていた。現に仲良くなっているとは思う。それでもそんなことを言って欲しくはなかった。
私は私の盾で自分を守り、自分が傷つかない方法を探っている最中である。だがその方法は自分の穢れた部分すらも見つめることは出来ない。それも頭の中では理解している。
それでもそれをやめないのは、私自身がそれをしたら本当に壊れてしまうからだ。もう30も目前になっている。それでも自分を見つめるにはもう少し時間が欲しいと考えてしまう。


障害者手帳を盾にして何が悪いというのだろうか。しかし、先輩はそれだけを悪だと言っているのではない。私の現状を悪だと言っている。そんなことは分かっている。分かっていてこの中途半端な有様なのだ。
それにいま私は逃げている。先輩と会うのが怖い。あの言葉が私の脳裏に過ぎる。優しいからこその恐怖。これに勝るものはない。
ひとを案じての言葉というのは時に傷をつけるものだ。だが、それが優しさだと思えればひととして成長出来たということなのだ。私はまだ成長出来ることはないだろう。逃げてばかりの人生に終止符を打つことが出来るにはもう少し時間を要したい。


それがいつになるのかは分からないが、恋人にはもう少しの間待ってもらうことにする。しかし、恋人はまだ私の中途半端さに多くは気付くことはないだろう。ないと信じたい。
どんな事があっても多くの中途半端さを気付かせてはならない。私の意地張りでわがままなプライドのようなものがそうさせるからだ。





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