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同じような場所で同じ事を繰り返す先に~未来における成熟と繋がり~

豪雨で県境の川が氾濫し、公園間近まで浸水した。
しかし彼は風も雨も止んだと判断し、夜に公園へ来た。ブランコ等遊具の影。ベンチ。電灯。風にそよぐ木々。そして雲間から出た月に揺れる「海」。
彼はベンチに腰掛け派手に足を開き、缶ビールを開けた。高い音が、透き通った空間に響いた。

『列島が船となる日に』(2040)

以上のような書き出しの小説を書くとして、「彼」の年齢設定をどうしようか、と考えるはずだが、「年齢なんてどうでもいいや」と思う自分もいる。

夜の公園で遊ぶ人間が10代だろうが、20代だろうが、30代だろうが、40代だろうが、別に構わない。もちろん性別や出身地、人種、職業の有無や種類等も、何でも良い。結婚しているかどうかも、同様だ。

最近「何年も前から、同じような事を繰り返している人々」のイメージが浮かぶようになった。ネガティブな意味で「いつまで同じような事やってるんだ」と思いもしたが、もしかして自分もそうなるのかな、なんて考えたりしている内に「繰り返しも悪くないな」と思うようになった。

一昔前なら、進学に加えて、就職や昇進、結婚が「繰り返し」を避け、人間を成熟や一人前に近づけていた……ように見えていた。そう、見えていた、だけなのかもしれない。親でも先生でも上司でも、成熟や一人前とは程遠い遭遇をしてしまい(所謂「ガチャが外れた」というヤツか)迷惑を被った人も多いかもしれない。

現在は世の中も複雑化し、雇用も徐々に不安定化、結婚も難しくなり、成熟や一人前の仮面がベリベリと剝がれつつある。社会や生活といった面では、シャレにならない困難を、これから日本という国は経験するかもしれない。しかし、精神面では、一人前の大人であるフリをしなくて済み、自由度が増すかもしれない。

年を重ねても夜の公園で佇んだり、誰かと喋ったりする。そういう「全然やっていいはずなんだけど、何故かやらなくなる」事を、当たり前の楽しみとして、やれるようになるだろう。

しかし経済は沈滞し、少子高齢化が進む事は(何かミラクルが起きない限りは)避けられない。人権状況の改善が無ければ、外国人労働者もいつまで来てくれるか不明瞭だ。つまりは、フリでは無い、実態に即した成熟が求められるという事だ。全ての人間がいつか体力と気力、学習能力が衰える。そんな老いに容赦なく吹き付ける社会の風をいかにかわし、時に戦うかだ。

月に向かって彼は吠えた。
「俺は何がやりたいか分からねえけど、とにかく存在を晒してるんだよ」
「そんな事言い続けてもう年々経ったと思ってんだよ」
俺は缶を蹴る。転がり、給水所で止まる。何となく悪い気がして取りに行く。
「存在を晒しても、スカウトもリクルーターも来ねえから、ここで待ってるしか無いだろう」
彼は笑いながら「海」へ走って行った。
「危ないぞ」
俺はよろけながら、彼を追った。

同上

本格的に錆びてきている古いシステムにも、電子空間の中で全て経験し手に入れているかのように振舞う人達でも無く、ただただ戸惑いながら進む市井の人達の側に真実はある。

古いシステムのせいで心身は枠をはめられたところに、電子空間の刺激が脳に濁流する事で自分を見失う。しかし古いシステムと電子空間は共同で「就活における自己分析」という不思議な土産を残してくれた。職業の具体的イメージや求められる知識について分からぬまま、抽象論や精神論をひねり出し、インスタントなエピソードを塗す行為。

あの苦労はするが無駄に思えた行為が、「晒せるような剥き出しの存在」を形成する上で案外役に立つかもしれない。自分は何が好きで嫌いかみたいな事が分かってないと、成熟する気すら起きない気がするからだ。

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