讃美歌と詩編

 旧約聖書に、「詩編」という、詩のようなものがたくさん集まったような書物があります。よく、「詩編は昔の讃美歌だ」という説明を聞きます。そうだと思いますが、現代の讃美歌(ワーシップソングのようなものも含めて)と、詩編には、違いもあります。
まず、長さがだいぶ違う。手で入力してみますとよくわかりますが、詩編のほうが、讃美歌よりずっと長いです。昔の人は、こんなに長いものを、よく覚えて歌っていたなあ、と感心するほど、詩編は長いです。

 もっと、決定的な違いを挙げますね。讃美歌のほうが、文字通り、神様を賛美する、「きれいな」言葉から成り立っているのにたいし、詩編は、しばしば、神へのぐちとか、恨みなどを吐き出しています。言葉が正しいかどうかわかりませんが、しばしば「きたない」言葉が使われています。
 
 詩編の例を挙げますね。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(詩編22:2)。これは讃美歌には出てこないでしょう。詩編は、正直ですね。

 もちろん、神を賛美している詩編もたくさんあります。しかし、詩編の読み応えのあるところは、こういう、神へぐちを述べるところにあると思います。聖書を読んで(私が)退屈するところのひとつに、「お祈り」があります。ソロモンの祈り然り、イエスの祈り然り。オンライン礼拝の録画を見ていても、説教のあとの「祈り」は。しばしばつまらなくて飛ばしたくなります。なぜ「お祈り」がつまらないのか。もしかしたら、「きれいな」言葉ばかりだからかもしれません。このあたりに、詩編の「読み応え」があるのかも。

 そして、讃美歌と詩編と、どちらが神に甘えているか、というと、これも、詩編だと思うのです。「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました」(詩編69:1)。正直に神に甘えているわけです。讃美歌と比較してみましょう。

 「主よ、終わりまで しもべとして あなたに仕え したがいます。」(讃美歌21-510)
 これは有名な讃美歌ですが、ここに甘えは感じられません。これはまるで自立した立派な信仰者のようです。しかし、さっき私は、詩編は正直だと書きましたが、逆に、この讃美歌は、うそかもしれないのです。「主よ、終わりまで したがいます」なんて言っているやつは、いざというとき、「あんな人は知らない」と3回言って、逃げる、というのが、聖書が描く、人間の姿ではないでしょうか。

 また、ずいぶん極端なことを書いてしまいました。「ぐちを吐く」というのも、一種の甘えですが、だいぶ、信仰の世界からも、正直な「きたない」思いが、締め出されているようにも感じます。もちろん人間には前向きな気持ちもありますが、ときには、ぐちを吐くことも大切だと思います。神様に甘えましょうね。

 本日は以上です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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