「音痴」と「アレルギー」

 「音痴(おんち)」という言葉は、音程が取れない人のことを指しますが、「いくら努力しても直らないもの」の代表的なものであるようで、「運動音痴」「方向音痴」「味音痴」などの表現があります。私は絶対音感を持っていて、かつ、世の中で流れている音楽のほとんどの和音は聴き取れておりますが、かなりの「運動音痴」です。ひどい「機械音痴」でもあり、「方向音痴」でもあります。たぶん、これらの「ナントカ音痴」という言葉は、「いくら努力しても直らないもの」という意味で使われる言葉なのでしょう。

 「アレルギー」という言葉は、「過敏症」という意味であって、たとえば「牛乳アレルギー」と言えば、牛乳に過敏に反応してしまう人やその症状を指しています。しかし、本来の意味から転じて、「数学アレルギー」とか「宗教アレルギー」といった表現もよく聞きます。これも、本人の意思とは関係なく、嫌いとかいうレヴェルではなく、「受けつけないもの」というような意味で使われていると思います。

 私は、生まれついての発達障害の人間で、極端な人間です。できることとできないことの差が激しく、私には、世の中にあるのは「努力しなくてもできること」と「努力してもできないこと」の2種類ばかりではないかと感じられるほどです。他人を見ていてもそうです。「音痴」の人は、いくら訓練をしても、その音感は直らないと思いますし、「この人は本当に数学のセンスがないのだな」と思う人はたくさん見てきました(学校の数学の教師だったこともあるので)。逆に、私自身が、いくら努力してもできないことはたくさんあるわけですので、たとえば、運動音痴はほんとうにひどいですし、また、機械音痴というか、パソコン、スマホ、そのほか、家電とかが全般にまったく使いこなせません。せっかくプログラミングの才能があっても、パソコンそのものが苦手なのですから、意味のない才能です。(障害者職業センターの人にすすめられた、ある発達障害の当事者の書いた本に、「パソコン、スマホ、インターネットは発達障害の三種の神器で、発達障害の人に向いている」と書いてあるのを読み、思わず「あなたはね」と思いました。そして次のページから、スマホを使ったスケジュール管理の話などになっていくので、読むのをやめた、ということがありました。わかってないなあ。発達障害って百人いたら百通りだから、発達障害の当事者の書いた本っていうのはかえってあてにならないのに。そもそもその本、2019年という新しい本なのに、いまだに熊谷晋一郎氏のいう「医学モデル」の本だし。障害者が努力して社会にあわせるっていう。脱線はここまで。)私は、普通の人が普通にできることのほとんどが、ことごとくできず、いまや、妻子をかかえて45歳で、昨年5月から休職しており、「できないことだらけ」で、今後、食っていけるかどうかわからないほどの困窮した状況にありますが、それは本当は、私の「できること」が、ほとんど社会のニーズに合わない、ということです。なぜか、「勉強」だけ、社会のニーズと合い、やけに学歴だけ極端に高いですが、いわゆる「勉強しかできない」人であって、社会へ出たらまったくダメな人です。私の「できること」ばかり見て、私のことをやけに高く評価する人はアテにならない。そういう人は、私がどれほど職場でデキなくて、生きるか死ぬかくらい困っているのがおわかりでないし、逆に、私の「できないこと」ばかり見て、私を極端に低く評価してハラスメントしてくる世間一般の人はもっと困るし。とにかく、人を「できる」「できない」で判断するのは、たいへん危険です。

 しかし、発達障害という概念は、人類の長い歴史のなかでは、かなり新しい概念です。まさか、私の「整理整頓ができない」「電気のつけっ放し、冷暖房のつけっ放しをする」というのまで「障害」だとは思わなかったでしょう。(こういう話をすると、必ず、すぐ「オレも」って言う人が出てくる。オレも電気のつけっ放しはするぞ、って言いたいのです。違うのに。私もうまく説明できないのですが、発達障害の症状の多くは、健常者でも持っているものばかりなのです。整理整頓のできない人、空気の読めない人、貧乏ゆすりをする人、傷つきやすい人、みんな、健常者のなかにもいます。しかもみなさん、その「程度」が「障害者レヴェル」。どうやら、程度問題でもないらしいのです。「ぽんこつニュース」では、程度問題として説明していましたけれど、程度問題では説明つかないと思う。余談終わり。今回、余談が多いですね。)ただ、昔から、「音痴」が認識されていたのと同じで、発達障害も認識はされていたのです。「バカ」と言われていました。落語に出てくる「バカむこどん」はおそらく発達障害でしょう。ミスター・ビーンもおそらく発達障害でしょうね。(また余談を。新約聖書のイエスやパウロも発達障害だという意見が以前からあります。私もそんな気がするのですが、ただし、発達障害の診断をくだすのは、とても専門的なことで、しろうとが簡単に診断できるものではありません。そして、イエスやパウロについて知ることのできる資料は、ほとんど「新約聖書」しかない。そして、新約聖書の記述だけでは、イエスなりパウロなりが、ほんとうに発達障害だと診断できない。したがって「イエス発達障害説」や「パウロ発達障害説」が、いつまでたっても立証できないのは、そのせいだと思います。余談終わり。)とにかく、発達障害が、身体障害なみに障害だと認識されるようになったのは、かなり最近だと思います。「KY」(=空気読めよ)という言葉に、ずいぶん傷ついたよ。もっともそのあと、「忖度(そんたく)」という似たような言葉も流行りましたけど。さっきから話題が遠のいていますが、「音痴」や「運動音痴」や「方向音痴」も、本人の努力ではどうにもならないっていうことは、わかっているのではないでしょうか。学校教育の「音楽」(音痴)とか「体育」(運動音痴)というのは、なぜか「副教科」という失礼な呼び方をされて、「受験で出ない」ものですから、あまり重要視されていないようですけど、「数学アレルギー」はいかがですか。「数学」は、「受験で出る」「重要な」教科と認識されているようです。学生時代に、数学に苦しめられた人はいっぱいいると思います。発達障害(「整理整頓のできないこと」「空気の読めないこと」)が、持って生まれた障害であって、治しようがないことが、比較的最近になってわかったように、「生まれつき数学が苦手なのである」ということも、そのうち、医学的に解明される日が来るのではないでしょうか。そうなったら、世にはびこる、数学のできない人を家畜扱いする傲慢な数学教師どもは、どうなるのでしょうか。

 私、またつまらないことを考えましたでしょうか。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?