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自分ごと

 最近、ある人に、ある動画を見せられました。短い、人生訓のような動画で、「人の気持ちを明るくする、人の気持ちを軽くするような言葉を言う人が、徳が上がる」とかいう内容でした。私は、その人に、「当たり前だね」と(なかばバカにしたようにして)それを返そうとして、気づいたことがありました。

 その人は、その動画(人の気持ちを明るくせよ、ぐちは言うな)の主張を、「私」に向けて発していたつもりだったのだ!そうは思わなかった!だから「当たり前だね」という感想になってしまうのだ。(脱線になりますけど、しかしどこかでぐちは言ったほうがいいとは思いますよ。)

 それでわかったことがあります。父(母もですけど)に、わかってもらおうとして、いろいろな本や、ビデオなどをすすめたりしています。読んだり見たりしているようですけど、ちっともこちらの言いたいことは伝わりません。よく父は「当たり前だね」と、バカにしたように感想を述べます。どういう状況か、飲み込めたぞ。父(母)は、自分のことだと思って読んで(見て)いないのだ。なるほど、それじゃ、何万冊、すすめてもわからないだろうね。

 ある作家(誰だったか自信がないので名前を挙げません。ごめんなさい)がだいぶ前に言っていたことですけど、女性週刊誌に、「女性の悪口を書いてください」と言われたそうです。「女性週刊誌に、女性の悪口を書いてもいいのですか?」とその作家がたずねると「だいじょうぶです。誰も自分のことだと思って読まないので」と言われたそうです。なるほど。女性が女性の悪口を読んでも、自分のことだと思って読まないのですね。

 ある教会の礼拝に出たときのことです。礼拝前に、近所に住んでいる高齢のご婦人が、行きたいけれども今日は体調が悪くて行けない、ということを何度も言っていました。礼拝に出て、説教(礼拝における宗教的説話)を聞き、そのご婦人のことがしきりに思い出されましたので、そのことを感想として礼拝後に述べたところ、説教をした牧師の奥さん(牧師夫人)から、「あなたは説教を『自分ごと』として聞いていない!あとで録画でもう一度見るべし」と言われました。そこで、夕方にパソコンで、録画を見て、あらためてそれがどういう説教かわかり、その牧師夫人の言いたかったこともわかりました。たしかに私はその説教を自分のこととして受け止めていなかった。しかし、それを言ったら、その牧師夫人も、その(だんなさんである牧師の)説教を聞きながら「これは腹ぺこさんにぴったりだ」と思っていたとしたら、その牧師夫人も、やっぱりその説教を自分ごととして聞いていなかったことになります。そうですよね?

 この「自分のこととしてひとの話を聞かない」という人間の性質って、なんでしょうね。この記事の冒頭の、私にある動画をすすめてきた人にしても、その動画を「腹ぺこさんに聞かせたい!」という思いで見せて来たのだろうと思います。その人が、果たして「自分ごと」としてその動画を見ていたかどうかは疑わしい。

 でも、こういった「説教」のようなものでなくても、おいしいものを食べたら「だれかにこれを食べさせたい」と思うのは自然であるような気がしますし、自分の好きなものはひとにすすめたくなるものです。半年くらい前に、ある港町で、おいしい寿司を食べたとき、あまりに新鮮でおいしかったので、「だれかにこれを食べさせてやりたい」という思いになったことがありますし、そもそもこれをごちそうしてくれた友人が、私に、この寿司を食べさせてやりたいと思ってくれたからこそ、食べられたわけです。説教を聞いてもなかなか自分ごとにならないとしても、それは人間の実態として自然であるような気もします。ひとに見てもらいたい、ひとに聞いて欲しい、ひとに味わって欲しい。それは上の牧師夫人の(無意識の)例からしても、人間にそういう傾向があることは確かだと思いますね…。

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発達障害の当事者です。キリスト教の信者です。