2人の犯罪人

 イエスといっしょに十字架につけられた2人の犯罪人が、イエスの両サイドにいます。マタイ福音書、マルコ福音書では、両方の犯罪人からバカにされたことになっています。しかし、ルカ福音書によると、片方の犯罪人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いますが、もうひとりの犯罪人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方(イエス)は何も悪いことはしていない」と言い、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言います。
 これ、何度も聖書を読んでいるうちに、違和感のようなものが感じられます。一人目の犯罪人が、かわいそうなのです。ののしっただけの犯罪人は、救われないのだろうか。
 最初にこれを指摘している文章に出会ったのは、牧師の文章でもなければ、クリスチャンの文章でもありません。宇野功芳さんというやや前に亡くなった音楽評論家の文章です。シュッツの「十字架上の七つの言葉」という作品の解説においてです。すなわち、この犯罪人の「ののしり」は、ののしりには聞こえないと。彼はわらにもすがる思いでイエスにすがったのだ、と。私もそう思います。
 つぎは、私の通う教会の牧師の説教です。たしかに、一人目の犯罪人が、これでは救われないことを、説教で指摘なさっていました。しかし、その説教では、マルコを「改ざん」した、ルカにたいする批判へと話は向かっていきました。たしかにそれも言えますが、この読み方は、聖書の言葉を自分の言葉にしているわけではありません。これもひとつの解釈ですが。
 そのつぎは、関野和寛牧師のメッセージです。この箇所でお話をなさり、「優等生の」犯罪人が救われる話をなさいました。(それが標準的な解釈です。)あとから、関野先生のところへ直接行き、一人目の犯罪人は救われるのでしょうか?と私はたずねました。関野先生は、不意を突かれたような表情を一瞬、見せたのち、そうだよね、この一人目は、ののしりで人生が終わってしまうからね、でも、キリストは、この一人目も救ったと思うよ、と答えてくださいました。
 そして、2020年6月7日の奥田知志牧師のオンライン説教です(YouTubeで聴けます)。その日の聖書箇所は、この箇所ではなかったのですが、奥田先生は、その日、ぐちをのべることの大切さを説いており、さまざまな聖書の箇所を引いているうちの一か所がここでした。奥田先生は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言った言葉は、さきの一人目の犯罪人(ののしったほう)に語られた言葉ではないか、と言いました。すごい解釈です。はじめて聞いた解釈でした。おそらく福音書の著者のルカさんの意図(ルカさんも、この言葉は、「優等生の」犯罪人に向けて言った言葉のつもりで書いたんじゃないかな)をも超越した、「奥田による福音書」です。
 すごく救われる話だと思いました。十字架につけられているのは、自業自得です。それでもイエスをののしる(上述の宇野功芳さんによれば、「ののしりには聞こえない」のですが)犯罪人こそ、われわれの姿であり、彼が救われなければ、われわれは救われないのです。
 この箇所に限らず、聖書にも、ときどきこうやって、「勧善懲悪」な場面が出てきます。でも、私たちって、「悪い」じゃないですか。これだと「懲悪」されてしまうわけです。福音書記者の意図まで超越して、一人目の犯罪者を救う話と読んだ奥田先生は、さすがだと思いました。
 関野和寛先生とは、ある講習会でご一緒したのですが、マタイ25章31節以下の、羊と山羊を分ける話の、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」という厳しい言葉も、キリストの思わず言い過ぎみたいなもので、みんな救われるとおっしゃっていましたし、ヨハネ3:16の、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉も、「信じない者は滅びるのですか」という私の問いは、もはやネタとなっていました。みんな救われるのです。
 みんな罪びとなんですから、「いい人」「立派な人」しか救われなかったら、だれも救われないでしょ?イエスは、罪びとを招くために来られたのですよ。じょうぶな人に医者はいらないのです。罪びとこそ救われるのです。無条件に!


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