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「数じゃないんだよね~、…でも数なんだよね~」

 最近、私の記事が、あるインターネットメディアに載るようになったお話を書きました(「腹ぺこの「ちょっとあつかましく生きてみたい」」ご参照。リンクがはれなくてまことにすみません)。クリスチャンプレスというところに載っているのです。「発達障害クリスチャンのつぶやき」という題です(障害を振りかざすつもりはなかったのですが…)。それはともかく、そこの編集のかたに、連載の始まる前、サンプルとして、私の記事をお送りしました。私はそれまでに、私の記事の「完成度」と、「スキ」の多さに、かなり強い相関関係があることに気づいていましたので、「スキ10以上」(私としてはかなり多い)の記事を、機械的に、35本、お送りしました。サンプルといったら、普通は4本くらい送るものでしょう。そこを35本、送ってしまう私は、やはりこれも障害特性なのですが(すべてを紹介せねば気がすまない。はしょりかたをしらない)、編集のかたによって、35本のなかから適当にチョイスされ、先週の水曜に連載は始まってしまいました。そこで、私に起きた心境の変化はなにか。
 「スキ」の「数」が、異様に気になるようになってしまったのです!

 あるかたには言われました。スキの数は気にせず、読んでくださるかた一人ひとりを大切にして書けばいいのではないでしょうか。しかし私もスキの数は気になっちゃいますけどね。そうです、その通りなのです。いままで、そうして書いてきました。過去の記事を振り返ってみれば、私としては「かなりの大発見」を書いた記事であっても、スキが「2」くらいしかついていない記事も散見されます。それでよかったのです。しかし、いまの私は、スキの数を気にせざるを得ない状況に(自ら)なってしまった。そこで考えたことに、以下のようなことがあります。

 ある牧師さんが、個人的に私と話しているあるとき「数じゃないんだよね~、…でも数なんだよね~」と言っていました。たぶん、洗礼を受ける人数についての話題になったときだと思います。(洗礼を受けるとは、キリスト信者になることです。)たしかに、ひとりの人がキリスト教の信者になることは、その「ひとり」のかたにとっては、「1分の1」のことで、たいへんなことであり、洗礼を授ける教会のほうも、(上で書いたように)「一人ひとりを大切にして」洗礼を授けているわけです。しかし、結局は、「年間で何人、洗礼を受けたか」という「数」で見ることになります。礼拝出席者数をはじめ、すべて「数」で見ています。

 急に教会ではない話になりますと、「多くの人の共感を呼ぶこと」(これをこの記事の題名にするつもりもありました)にかんしては、たとえばテレビの「視聴率」というものがあります。視聴率の高い番組がいい番組なのかどうかはさておき、とにかく「視聴率」というものは嫌でも気にせざるを得ない。「何万回再生されたか」「何万部売れたか」…。とにかく「数」です。(その「本」を読む人、その本に共感する人は、「一人ひとり」なのですが、結局「何冊売れたか」の「数」を見られる。)選挙の投票もそうですね。なにしろ得票数の多い人が当選する仕組みなので、皆さん、いかに票を得るかで、必死です。(たくさん得票して当選する政治家がいい政治家かわからないのは、視聴率の高い番組がいい番組なのかどうかわからないのとなんか共通しますね。)しかし、たしかに(上に書きました通り)私の記事の「完成度の高さ」と「スキの多さ」は、強い正の相関関係があると言わざるを得ない。私はかつてツイッターをやっていましたが、いま、ときどき思い出すツイートは、「身近な友だちのツイート」よりも、明らかに「バズっている(たくさんの「いいね」がついている)、誰が書いたのかもわからないツイート」でした。たしかに、バズっているツイートって、完成度が高かったのです(このへんが、上に書いた、「視聴率の高い番組がいい番組とは限らない」という話と相反するようで、悩ましいところではあります)。

 それにしても、バズらせようとしてバズっている人はめったにいないようでして、なかなか「計算ずく」でヒットを打つことは難しいらしい。私自身、そうです。「へたな鉄砲、数うちゃ当たる」式で、いつも適当にnoteの記事を書き、当たるものは当たる。その編集のかたに35本もサンプルを送ったのも、「へたな鉄砲」状態です。「カラムーチョ」や「雪見だいふく」が、なんであんなに長くヒットし続けているのか、開発した人にさえわからないのではないでしょうか(もちろん、すべて新商品を開発する人は、ヒットするように工夫して開発したに違いありませんが、ではなぜカラムーチョはそんなにロングセラーになったのか、なぜほかのたくさんの商品はノーヒットだったのか、説明はできないだろうと思います。知らないことを勝手に言ってすみません)。ふたたび教会の話に戻りますと、クリスチャンプレスで連載を持っている私の知っているある牧師さんは、短い記事(というか決められた文字数の記事)を書くのがお得意なかたで、礼拝説教なども「計算ずく」でヒットを打つ感じのかたでした。その牧師さんが言っていましたが、野球でも、三割打者はすごいと言われる。説教も三割ヒットしたら、すごいのではないか、と。これは、もっと最近の知り合いの若い牧師さんからも聞いた話です。三割ヒットしたらものすごいとでも思わねばやっていられない、と。(やはり「へたな鉄砲」作戦ですね。くだらない話をしてもよいのだ。私のことを「腹ぺこさんの文章は、すごくおもしろいときと、すごくくだらないときの差が激しい(その落差が好き)」とおっしゃってくださったかたもありますが、とくに私はそうなのかもしれません。)

 計算ずくでヒットが打てるなら(ある程度は打てるのでしょうが)、たとえばもう少し日本でのキリスト教人口は多いはずだという気もします(日本でもっとキリスト教というか宗教を流行らせようというふうに動いておられるかたは少なからずおられる。「散発的なヒット」を打っておられるかたはいらっしゃいます。しかし、なかなか大きな波にはなりません)。「司書教諭」の勉強をさせられていたころ、しきりと「うまくいっている市区町村の実例」を見させられて、ややうんざりしていたことを思い出します。成功例をたくさん見たからと言って、自分もうまく行くわけじゃないやい!明石家さんまさんの番組をたくさん見ていたら、トークがうまくなる、と思われているのと同様な気がしました。(そんなわけはない。)

 私の記事の話に戻りますね。いつだったか、適当に書いたら、スキがひとつもつかない記事がありました。そのことを書いたことさえ忘れて、後日、同じ内容で書いたとき(おそらく少し切り口が違った)、今度はいきなりスキ18コメント1となりました(私としてはかなり多い。「マザー・テレサの偽善」という記事です。リンクがはれずにすみません)。これなど、書いている内容ではなく、「書き方」ひとつで、こうも「文章としての完成度」が違うのだ、という如実な例です。私がこうして書いている記事は、その「クリスチャンプレス」の記事としては、かなり長い、ということが言えます。もっと短い記事にすべきなのですが、「スキ」がたくさんついた記事を、自ら要約して、短くして、果たしてもとの完成度を保てるかはわからない(上に書いた通り、「同じ内容」でも書き方ひとつで評価(完成度)はこれだけ変わるし、自分で自分の「角を矯める」可能性がある。なにしろ自分で「ヒット」は打てない。とくに私)。

 「ちょっとあなた、『スキ』を気にし過ぎでしょ」と思われた、これをお読みのかた。そのとおりなのです。しかし、私は、上に書いたような事情によって、「スキの数を気にせざるを得ない」状況に置かれるようになったのです。いや、じつは編集のかたにも、「基本、いままで通りでかまわない」と言われているので、これは単なる自縄自縛である可能性も高いです。でも、この今回の件で、「視聴率」を気にする(せざるを得ない)人、再生回数や売り上げを気にする(せざるを得ない)人の気持ちがちょっとわかったというか、そんな気分なのです。「数じゃないんだよね~、…でも数なんだよね~」。深い言葉です。

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