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『普通のデザイン』を読んで①

古本屋で手に入れた、2007年に出版された一冊。

インテリアデザイナーの内田繁氏が、日本文化の根源性にふれるものと今日文化との対比について、世界各地で行った講演がまとめられている。根源性とは、今日の社会生活に埋没しているように見えて、しばしば立ち現れてくる民族文化の固有の記憶としてすりこまれたものだと述べられている。第3章で取り上げられている「弱さのデザイン」は、日本の文化の根源的性格として捉えられているが、同時に、地域・民族・生活の違いを超えて、共通して感じられる性格でもあるという。

この本の、最初の部分。日本人の死生観と空間のデザインに関する記述で印象に残ったところを書き残しておきたい(ほど興味深い)。友達に貸してしまう前にメモとして。

日本の文化の土壌に見出すもの

内田によると、日本の文化は、高温多湿で森林に覆われた「モンスーン型森林地域」という風土と、その認識方法である「仏教的世界観」をその土台としているという。どちらかを切り取って語ることはできないものの、今日は前者により焦点を当てたい。

「モンスーン型森林地域」の文化は、森と山に囲まれた世界で育まれ、季節の微細な変化をとらえ、動物や植物との一体感を持ちながら洗練されてきた。「大地に身を任せ、抱かれ、一体化したい」といった無意識の願望をはらんでいるものと指摘され、ごく自然な坐俗の生活、つまり「靴を脱ぎ床に坐る」生活スタイルと馴染むとされる。「立俗」のように計画的に物事を行う意識は乏しく、瞬間を感覚的にとらえる生き方をもたらしたとされ、それが日本人のカミの意識や死生観にもよく表れているという。

日本人の死生観と空間

中国における不老長寿のための神仙思想、西洋における錬金術など、永遠の生は多くの民族が求めた願いである。古代の日本では、「永遠のいま」を作り出そうと考えたのだという。生命を、太陽の運行に合わせた東西軸でとらえ、東の「過去」、西の「未来」の中間にある「いま」という時間と空間を積み重ね、時間の流れを止めようとした。具体的には、「いま」という瞬間の「穴」をつくり、そこにこもることにより、太陽のように再生を果たせると考えた。その「穴」は、胎児が母親のお腹の中にこもって、新生されるのを待つのと同じように、生命が更新されるための「仮設空間」である。仮設空間は、つねに新しいものでなくてはならず、行事が済み次第、いち早く取り壊され、空間はもとの日常の場へと帰ってゆく。このように、定着しないことが、「聖なる空間」を際立たせるものであり、「仮設空間」は、日本固有の重要な空間概念といえる。

時間・空間の仮設性と「いま」

日本の文化、日本の空間の特性は、日本古来のカミの在り方にも強く影響されている。古事記や日本書紀には、人格神が登場するが、もともと日本のカミは、肉体と個性を欠落した不可視のカミ、気配としてのカミであり、外側、つまり海の彼方に想像し続けた「常世」であり、異界としての「山」である。内田は、このような日本のカミを「マレビト」と呼ぶ。

「仮設空間」は、カミを迎えるためにもうけられる「ヒモロギ」にもみることができる。四方に柱を立て、そのまわりを「しめ縄」などで囲み、結ぶことで、その場所は「しめ縄=ヒモ」の呪術により聖なる空間となる。ここにも、日本の空間の重要な特性である仮設性を指摘できる。

日本の仮設空間は、カミの場、あるいは生命の復活の場であり、その自在な仮設性によって、どこにでも出現する。仮設することによって、つねに新しいものとして存在する。固定された時から腐り、朽ち果て、死を迎えると考えられているからである。

先ほど、古代日本の「永遠のいま」への願望を述べた。「いま」は、水の流れのように澱むことも、汚れることもない瞬間である。構築され、固定された瞬間からものは朽ち果て、汚れ始めると考えることと通ずる。

空(ウツ)なる空間

仮設空間の内部について、もう少し読み進めていくと、「空(ウツ)」という老子を彷彿とさせるキーワードが浮かび上がってくる。

しめ縄で結ばれた内部空間は、何もない「空」なる空間で、そこには「結ぶ」という観念だけが存在する。ヒモロギには、カミを迎えるための標(しるし)のようなものが設けられているのみで、カミは、そこに向かって来臨する。

このような場を、古来の日本の言葉では「ウツ」であるというそうだ。「ウツ」は、からっぽ、「空・虚」を意味し、「ウツワ」と同根の言葉でもある。何も入っていないからこそ、新たにものを入れて何かで満たすことができる。「ウツ」は、「ウツロヒ」の語源でもある。「ウツロヒ」はさらに、変遷すること、固定化されないことをあらわす「ウツル(移る)」、光や影が映し出されるように、別の何ものかを映し出す「ウツス(映す)」へ。そして、「映し」出されたものを何らかの方法で定着させる「写し」へとつながっていく。これらの言葉は「ウツ」という空虚なものがもつ、自在な可能性を示している。

空間は「ウツ」の状態にあることが望ましいとされ、「ウツ」は、何かに満たされたとき、または何かが起きたとき、その姿をあらわす。「ウツ」なる空間に何かが「ウツロヒ」、そして「ウツツ(現)」が生まれるのだ。つまり、日本文化においては、現実とは何もないものから突然生まれ、日本における空間は、「ウツ」という枠組みだけが存在し、何かの行為や行事とともにその姿が立ち現れるものなのである。

小まとめ

こうした日本の空間の特殊性は、認識的で非固定的であるといえる。このような文化は、今日のデザインにも生きていると同時に、日本の現代デザインを特徴づけていると指摘されている。

式年遷宮の話とか、老子とか旧暦とか調べたら、いろいろとつながって面白そうだ。続きは気が向いたときにまた。



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