見出し画像

【仮構小噺】怒れる母ペンギンの冒険

“差し殺したい。
メッタ刺しにしたい”
――憎悪。
この怒りの、根底にあるものは何か?

分かってもらえない。
母親としての私の努力や貢献を無下に扱う。
もしかしたら認識すらしていないかもしれない。
「ツマトシテジブンガホシイモノヲアタエテクレナイ
コノオンナハオレノコトヲリスペクトシナイカラ、ダメダ。
ダカラ、ハハオヤトシテモシッカクダ。」
――そういう短絡的な思考が見て取れる言動が、
繰り返されてきた、日常。

屈辱。虚しさ。
子どもを取られて国に連れ帰られてしまうのではないかという、不安。
そういうものが一緒くたになって、怒りは下手な手の丸めた毛糸玉のようにもつれ、膨らみ、胸の中央あたりにぐちゃぐちゃした感情の杭を打ちこみ、刺さって抜けない。

子どもへの対処、世話は母親役がやるのが当然。
でも、経済的な何かがからんだり、重要な選択をする時は、
それまでの情報収集や付随する連絡調整や、こちらと子どもの選択も全部無視して、自分の価値観を押し付ける。

子どもが反発の意思を示すと、そっちを取るなら子どもの大事なほかの楽しみはなしダネ、と大人でしか持ちえない社会経済力をいいように使って脅して黙らせる。人権の尊重、って他国を批判しながら言ってたどの口が言う?
子どもの涙と、結果と、ついてくる結果へのフォローは私。
おそらく、そんなものがあることも想像に至ってない。

もやもやもやもや

この、もやもやに仮に火がつくことがあったら、
おそらく「私」は子どもたちの父親をメッタ刺しにしてしまうだろう。

やらないのは、分別と、
仮にもこの男は子どもたちが部分的には慕い、収入を得て子どもを養おうとしている。彼の価値観の中では、彼はパーフェクトな父親であり、不足ない夫なのだ。父権社会で価値観を無条件に肯定するような理想的な市民を内面化していたのなら「私」も首を縦に振るだろうが、そういう風になれるのはそうした社会の恩恵を盲目的に享受している人達であり、そうでない自分は苦い顔をするしかない。

でも。
時代は昭和ではなく、平成も過ぎて令和の、ここは日本だ。
次世代を育てているわれわれだから、iphoneやandroidの最新機種を追うだけでなく、価値観にこそアップデートが必要だ。

アップデートを促し合えるパートナーをイメージしてみる。
自分の内面が、それを作り出す成熟に至っていないのかもしれない。
――はあ、とため息。

安全基地をパートナーに見いだすことのない今、
「わたし」は子どもを育てることに意義を見いだして、
そこを足場に強くあるしかない、と思ってみる。

産んじまったんだもの、彼らには子々孫々、幸福でいてほしい。
それが親世代を過ぎる人間の共通の願いであり、
ただその切り口が違って、すれ違ったり争ったりするのかもしれない、
ときれいにまとめてみたくなる。(目の前の現実になると主観にしかなれないものだ。)

怒りの氷山を滑降して、海面に飛び込み、
ひととおりの海底探検を終えて、母ペンギンは思う。

「わたし」はもう、子どもたちとの愛着が切れるようなことはしたくない。
万全な足場がなければ、行動主義に駆り立てられて、無謀で奔放な選択をすることも、しない。

経済的な足場と、人とのつながりと、職能を磨くことを、
やり直している人生の秋口。

だから夫は、刺しません。

と「私」は心の中でひとりごちた。

投げ銭は、翻訳の糧になります。