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札幌のバンド 1

 好きだったあの子が、札幌のバンドに所属している男の彼女になった。つい最近のことだよと、祐希は言っているが、別にどうでもいいからまず目の前のその、もつ煮込みの取り皿ちょうだいよ、と俺は言った。祐希は「はいはい」と視線だけは天井のテレビに向けたまま、とても正確に、無駄のない、ちゃんとした腕の動かし方で俺の目の前に取り皿を置いてくれた。

 祐希は、ちゃんとした人間だ、と俺は思っている。結婚して子供が産まれた時、誰よりも先に俺にLINEをくれた、と思えるほど仰々しい文章で報告してくれた。祐希は、俺より一つ年上だ。娘の名前、どうしたらいいかな、と仲間内で話している時、豪が「すずだ。広瀬すず」と連呼している時、真面目にやれよと周りがニヤニヤ笑う中、「確かにな。確かに。芸能人の芸名は、きっと何かしら、な、あるよな。」と一人ぼそぼそ話してみんな唖然としたことがあった。豪は、「お、おう…でよ…」と話題を変えて話そうとする瞬間、その瞬間、俺は一人で納得した。祐希はきっとちゃんとしている良い奴だ、と直感で思った。思えた。律儀な奴だろうな、と密かに思うようになった。

 祐希はまだ天井のテレビを眺めている。もつ煮込みを、俺は食べている。外は霧雨らしく、傘を差す人間と差さない人間と大別されている。居酒屋の中は少しむっとしていて、若干暑い。5月だ。東京には、もう多分すぐそこまで夏がやって来ている。テレビはさっきまで明日の天気を占っていたが、コマーシャルを挟み、また外来ウィルスの話に変わっていた。不安だった。思えばずっと不安だった。でも今日は、祐希に会って話したことで、一緒にもつ煮込みを食べたことで、いくらか気持ちが楽になった。

「俺、その子のこと、好きだったんだ」
「は?え、何て?」
「好きだったんだって」
 俺がもつ煮込みを食べる手を止めて、「好きだった」ことを思い出していると、祐希は
「みんな夢中というか、みんな好きだったでしょ。あの頃は特に、みんな」とテレビから視線を戻して、向き合って、俺に言った。祐希は人と目を合わせない奴だ。俺のもつ煮込みを見据えながらそう言った。
「その中の一人だったのよ、まぢのラブだった」
「へぇ、あそぅ」
「人のもんになっちまったかー」
「ね」
「祐希は?どう思ってた?」
「ただの、同じ大学の後輩、で、同じ実習先で切磋琢磨、励まし合った仲間」
「固えよ、言い方も言葉も」
「お前も一緒だったじゃん、実習。あ、てことはその時から?」
「はっきり言わして貰えば」
「うん」
「そうだよね」
 祐希の視線はまたテレビに戻った。俺はあの時のことを思い出していた。思い出そうとしていた。でも、すぐにやめた。今はやめておこう。祐希と別れ、家に帰ってから考えたらいいじゃないか。今日は祐希と過ごす最後の夜だ。最後の夜ぐらい、今目の前にいるこいつの、愛想の悪いこの男の、ずいぶん可愛がってもらった先輩の、最後をちゃんと見届けてから、家に帰ろう。俺にだって、ちゃんとしたいことがあるんだ。

 ふと、手元に置いてあるスマホの液晶が光った。「明日にも宣言は解除の見込み」とTwitterの通知が表示され、そのすぐ下に祐希から届いたLINEのメッセージの通知が表示されている。「俺、今日で終わ…」と文章は途中で切れ、情けない感じだ。俺はそのメッセージに既読をつけずに、既読をつければ全て終わってしまうと思って、すぐに家を出てきた。四谷の近くにある祐希のマンションの住所だけは、家の引き出しに閉まってあった結婚の知らせの葉書から抜き取って、財布と、ウインドブレーカーを羽織って、中央線に乗り込んだんだ。

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