見出し画像

麻倉瑞季写真展「undying」

クラウドファウンディングで出資を募った写真展。
詳細はこちらに。

会場の渋谷OZstudioは渋谷と恵比寿の間、明治通りから国学院の方に登る坂の取っ掛かりにあるビルの3階にあるギャラリー。
築10年少々の建物だが、昭和の雑居ビルのような一直線の階段を昇り切ったところが入り口。

南側は全面ガラス張りで外光がふんだんに入る。

特に順路は設定されていないが、入り口横の壁面にステートメント、そこからぐるりと壁沿いに一と回りして、真ん中あたりに吊り下げられた作品を見る形。

額装、キャンバス、直貼り、吊り下げ、見せ方も様々。

展示壁面の終わるあたりに小部屋。
暗がりになった奥の壁には、砂浜に寄せては引き、引いては寄せる波の映像が流され、波の音が静かに響く。

麻倉瑞季らしい直截な表現で写真展の内容が書かれたステートメントには、希死念慮をテーマにした写真である事が綴られている。

鏡の破片を喉に押し当てた自刃、太めの綿ロープを使った縊死、建物の屋上の柵を乗り越える墜死、海を漂う入水。
4つのやり方で死んで見せる麻倉。

今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて

淡島椿岳の辞世を思い出す。

切り裂かれたキャンバス、梁から下がる首括りの縄、

破滅の手前、状況証拠の積み重ねで推し量らせて、実際の自死の現場にある生々しさは見せない。
死んで見せる麻倉は神々しくすらあり、美しい。

波打ち際から海に入り、水面を漂うが沈まない。
建礼門院の故事のように、入水のみ目的を完遂しなかったように感じられる。

ぐるりと回って、東京と思しき街で生きている麻倉の姿を見せて終わる。
終わりではなく、輪環する永劫回帰なのかもしれない。

希死念慮を「悪」とはせず、向き合い、飼い馴らすことでどうにかこうにか生きて行く。
Nec spe nec metu.
生きているからこうして写真展が出来ている。

飯田エリカ自身の写真展でも使われていた透明の立方体と、静かに聞こえる波の音。窓際に並べられたビニール傘はクラゲのイメージだろうか。

海を媒介した死と再生。
死の淵に立たされ、そこから還って来た飯田エリカだからこそ受け止められた「生きづらさ」だったのではないかと思う。

グラビアの麻倉瑞季を期待していた向きは面食らったのではないかと思うが、多少なりとも「人となり」を知っていれば腑に落ちる。

明確ではない、漠然とした救い。
遠くに灯りの見えるような写真展だった。


(2024.08.25 記)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?