卯月梨沙個展『幽明』
代官山から新井薬師、スタジオ35分へ。
どう乗り換えても面倒なのであるが、端の方にサジェストされていた「池袋から関東バス」を選択。
池11系統中野駅北口行に乗り、新井薬師駅前の一つ手前「上高田中通り」で下車すると至近。
商店街のミニラボだった空き店舗をギャラリーに、隣のラーメン屋だった空き店舗をバーに、隔てる壁をぶち抜いて穴をあけ「にじり口」のような通路で繋いである。
ギャラリー部分は哲学堂通りに面して全面窓なのと、壁が白いのとで、中で何を展示しているのか一と目で分かる。
方角的に西日が入るのは難だが、長期展示をしなければ影響は少なそう。
長い展示期間を二つに分けて、前半は写真家セレクト、後半はギャラリーセレクトでの展示。
ノートリミングのモノクローム。
写っているものは明晰だったり曖昧だったり朦朧としたりしている。
ネガは恒久的に映像を保管する為に作るものであると言う先入観と言うか固定観念と言うか、そうした物に私は縛られていたが、卯月梨沙は特殊な前処理工程で「朽ちて行くネガ」を作り、それをプリントしていた。
洗濯用の液体洗剤による前浴、洗い流さずに進める現像処理。
これによって「泡による部分的な反応抑制」「界面活性剤による乳剤面のムラ、滲み、剥離」が起って現像に不確実性が増すと共に、界面活性剤によって乳剤とベース面の結びつきが弱まり、経時での剥離も起こりやすくなる。
敢えて不確実性を増す工程にはしつつ、バライタ紙へのプリントには呪術的とも言える念入りな手作業を加えており、同じプリントはこの世に一枚きり。
エディション管理はするが、それ以前に同じものを複製することそのものが不可能。
乳剤面に記録された像が流れ、滲み、歪む事で。
泡の影が乗る事で、奥に絵があり、手前にも絵がある。
平面である筈のネガに記録される痕跡は部分的に立体として記録され、プリントの上に再現される。
こうした工程としての下話の上に写真として提示される、どのような映像を撮るかと言う根本的な問題とその答え。
ギャラリーのラジオにて、経歴や作品についてなどを語っていたが、「死を盾にしない」との発言に頷く。
生と死の間に揺蕩うものを画像として固定した作品でも、「死」を美化したりそちらに誘うような妖しさが無かった理由の一端はそのあたりにあったのかもしれない。
額装して展示されているのはギャラリーセレクトの作品だが、前期に提示されていた作家セレクトの作品も観ることが出来た。
ギャラリーセレクトは普遍性に振った感じ、作家セレクトには尖ったものも混じる。
ギャラリーセレクトは特殊前浴処理によるエフェクトが弱め、作家セレクトのものは強め。
日夏耿之介の論考「名人鏡花芸」の中で、泉鏡花作品の特質についてこんな事が書いてある。
作品そのものとしての分かりやすさ、伝わりやすさについては措くとして、卯月作品の特質については、作者セレクトの作品群の方がより強い。
卯月梨沙の脳内に渦巻いているであろう「絵」も、こちらに近いのではないか。
印刷の仕事をしていると言う来場者が、黒と黒に近い灰色、黒より黒い黒などの諧調表現と、それを印刷して再現できるか否かについて「数学上の未解決問題」の様な歯応えのありすぎる課題として味わっていたのを横から面白く見た。
作品を「自分ごと」として見るやり方は無数にある。
(2024.10.13 記)
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