出会い頭にブン殴らないと撮れないような写真なんざ糞下らねぇとは思いつつ、つらつらと書いてみる。
ストリートスナップの人たちが線引きをしたり気をつけたりしてきたことを、鈴木達朗とフジフイルムが根こそぎ焼き払ってしまった。 焼畑農業のつもりが山を丸焼けにしてしまった。
実に迷惑な話である。
「対象にぶつかって行くくらいでないと、良いストリートスナップは撮れない」的な物言いをする先達は多かったし、それは間違いではない。
(私はそう言うのは野暮で嫌だなあと思ってそうではない撮り方になった。)
ああ言う撮り方をしていれば、恐らく殴られたり蹴られたり、カメラを壊されたりしている。
でもやめない。やめられない。 写真を撮る業を背負うと、多少の不利益には頓着しなくなる(出来なくなる)。
鈴木達朗はそういう撮り方に取り憑かれている人なので、良し悪し以前にどうにもならないし、そう撮らないと撮れない写真もある(※私は嫌いだ。)
私は嫌いなのだけれど、嫌いと良し悪しは別であり、美醜も紙一重である。 ああやらないと撮れない種類のものであり、それが良いと思う人も悪いと思う人も居るだろうし、切り取られた写真に価値を見出す人が居ることまでは否定できない。
撮り方も写真も、言ってしまえば人としても嫌いだけれど、イコール悪ではない。
(ただ、出会い頭にブン殴らないと撮れないような写真なんざ糞下らねぇとは思う。)
しかし、怒りたくて怒っている、怒るネタを日々探してる人は写真なんかどうでもいいので対象を焼き尽くすまで、もしくは次の生贄を見つけるまでやめない。
だから持ち上げずにほっといてやれば良かった。
カメラを売るために利用した奴が、そして旗色が悪くなるやゴミクズの様にポイと捨てた奴が何より悪い。
フジフイルムにとって、ユーザーはゴミクズ同然と言うことも暗に示している。 醜い。
ストリートスナップが撮りにくくなっている昨今、どんな撮り方なら許容されるのかとか、そう言う営為を積み重ねている人々を根こそぎ焼き払ってしまったフジフイルムがどう落とし前を付けてくれるのか。
目下の関心事の一つはそれである。
広告を全面的に引き上げてほとぼり醒ませばどうにかなると思っているようだが、甘い。
使い勝手の良いカメラが「そう使われてしまう」のは仕方がないのだけれど、それが正当な撮影行為であると製造メーカーが許容したと思われるようなものを広告として使う。
それが信念に基づいたものであり、貫き通すならまだ良いが、あわてて引っ込めるということはソレもない訳で、まぁ街で写真撮るものとしては「ナニしてくれやがんだこの馬鹿野郎」という感じで乾いた笑いしか出ない。
カメラメーカーによって、写真を撮る事がより窮屈な時代にされるというのが、鈴木達朗以上に不愉快。
まぁ、何よりの不愉快は、無意識の加害者であり共犯者でありつつ、自らは無辜の市民であると思い上がっている連中の馬鹿騒ぎである。
今、能動的にメーカーと本人を叩いているのは、日頃意識してストリートスナップ的に写真を撮っていない人たちだと思う。
しかし、その人たちの殆ども、広角でピント精度の良い簡便なカメラ付きの何かを所有しており、日常で無意識的にストリートスナップを撮っている。
そしてそれは無意識的である分、より不躾で、より残酷なものである訳であるが、無意識なので自分たちも同類であり、寧ろもっと酷いことには気付かない。
事件・事故の現場が有れば群がり、レンズで屍肉を漁る。
奇異な格好・振る舞いをする人が居れば、仲間と共有してあざ笑うために切り取る。
ルカによる福音書にある「罪の女」の話のアレである。
石を投げるなら、棒で殴るなら、水に落ちた鈴木達朗ではなく、是非フジフイルムを。
(2020.02.07 記)
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