真の愛って何なのよ~信仰を頑張る現役2世に読んでほしい~

真の愛とは犠牲的であり献身的な愛である。
旧統一教会の教えで、大切だとされるもののひとつに”真の愛”っていうものがある。愛は愛でも真がつくらしい。

私が教えられてきた真の愛というのは、いわば親の愛だという。子どもから見返りを求めず、ただ命に代えても愛したいという愛だそう。そして、その愛をもつ人こそ真の父母(教祖夫婦)だっていう話。

もし全人類が真の愛をもてるのならば、なんてすばらしい世界になるのだろうか。けど、この真の愛とやらが結構やっかいな言葉なんですよね。

旧統一教会の信仰をもつ方々は、この真の愛をもてるように努力している。よく家族関係、信徒同士の関係等で愛せなかったけど、愛せるようになったっていう勝利話がされる。

その話を聞くと、「え、愛せなかったって実名だして公言するの?」とびっくりしちゃう。聞いている本人はどんな気持ちなのだろうか。幸い?、言われたことはないのだが…。そして、信仰をもっていた時も誰かに思うことがあっても、絶対に私は心に秘めていた。

そして離れた二世について「愛したい、包み込んであげたい」という話をきくと、「え、求めてないよ?」と思う。さらに、「離れた人は原理がわからっていないので葛藤する…。けど愛さないといけない」という話には笑ってしまう。

愛って頑張るものなのだろうか。
愛が伝われば教会に通うようになるのだろうか。

私は信徒の皆さんが愛をもっていないと言いたいのではない。愛を感じたエピソードがある。

私が経済的に苦しい子ども時代を過ごし、恨みが募り、他の少し裕福な二世に嫉妬しておかしくなりそうだった時期があった。そのとき、その気持ちをぐちゃぐちゃになりながら1世の婦人に話したことがあった。その方は私と一緒に泣いてくれた。そして後日、私にお小遣いをくれた。今でも忘れられない。愛のある方だなと思った。

旧統一教会の2世は、幼少期から真の愛をもてるように教育される。座学でも集団生活でも。

でもそのように促され続けて愛をもった人になれるのだろうか。
すべてのことに愛せない自分が悪いと感じ、傷つくことも多くなるのではないか。

そして、頑張ろうと力んだ人から愛を受けた人は愛された喜びを感じるのだろうか。

愛された体験をして、やっと同じことができると思う。上述した愛のある方だなと感じたエピソードは信徒の方であるが、愛された思い出のなかでは教会員以外の方々からも感じてきた愛が大きい。

結局、あったかい人って、宗教問わずなんじゃないのか。

だから、愛さないといけないと躍起になっている二世たちは肩の力を抜いてほしい。愛さないといけない対象になっている自分は見ていて…苦しいよ?

そして愛するという方向が教会に連れてくることとイコールと考えるならば、ますます教会に行かない子と信仰をもつ子の間に溝がうまれるのかもしれないね。



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