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5.9 黒板の日

去年の冬、黒板の片隅に書かれたその叫びに気付いたのは、きっと私だけだったのだと思う。
高校の美術室の後ろに立てかけられた黒板。木枠が壊れて所々ささくれている。
どこかの教室で使われなくなった物が置いてあったのだろう。
誰もいない美術室で、その時私は一人息を潜めていた。授業にも出たくないし、だからといって家に帰れる訳でもない。
小さな田舎町では、学校をさぼって外にいようものならすぐに学校に通報されてしまう。
平日の昼間に制服姿の学生がいても違和感が無い場所は、結局校内しかないのだ。
美術の授業は数が少なく、美術室は最適の隠れ処だった。校舎の端にあり、職員室からも一番遠い。
私は授業をさぼる時は何も持たずに、こっそり美術室に向かう。そして授業がひとつぶん終わるのを、ただぼんやりして待つ。
その日は落ちている画鋲を拾おうとして、その黒板の文字に気付いた。
木で出来た四角い椅子の後ろに隠された、白いチョークで書かれた文字。頼りなく、触れたらすぐに消えそうな細い文字は
[誰か助けて] 
と何者かに向かって救いを求めていた。
私は何気なくその隣に青いチョークで[どうしたの]
と書き込んだ。私の文字が丸くて太くて、白いチョークの文字と比べてあまりに元気だったので驚く。
私も自分のことを消えてしまいたいくらいに無気力だと思っていたのに、案外そうでもないのかもしれないと思った。
「私より元気無いって、相当じゃん」
私は拾った画鋲を黒板の木枠に刺して、その傍に体育座りをして時間が過ぎるのを待った。
白いチョークの文字はいつ書かれたものか分からない。もしかするとすでに卒業した生徒かもしれないし、ただのいたずら書きの可能性だって高い。
それでも私がメッセージを書いたのは、こんな私でも誰かの助けになれたらと心の片隅で思ったからだろう。それはなんだか自己満足の偽善みたいで、帰り道に私はまた私のことが少し嫌いになった。
ところが、どうだろう。
翌日美術室に行き黒板の端を覗くと、白い文字は新しくなっていた。
[みんなに無視される]
前日よりも小さくなった文字。それはどんな思いで書いた告白だったのだろう。
私はまた、青いチョークを手にしていた。
それから、私と誰かの秘密の文通が始まった。
私はいつも青いチョークで、誰かはいつも白いチョークでメッセージを書き込んだ。
個人を特定出来るようなことはお互いに書き込まない。相手が分かってしまっては、本音での文通を続けるのは難しいと分かっているのだ。
人間って汚い、と思うけれど、やはり容姿や周りからの扱いなど生身のデータを知ってしまうと、どこかにフィルターがかかってしまう。
そうしたら純粋に心同士で会話をするのは難しくなるだろう。
交流を続けるうち、私たちには共通点がたくさんあることに気がついた。
授業についていけず学校がつまらないこと。クラス内では気をつかって息が出来ないこと。恋愛映画が好きなこと。購買のパンはプリンパンが最強だということ。水色が一番好きな色であること。
だんだんと楽しくなって、あっという間に三ヶ月もの間毎日そ他愛もないやりとりが続いた。
[会う?]
相手からの誘いは突然来た。
その頃になると白いチョークの文字は、最初よりもだいぶ筆圧が強く、濃くなっていた。
[会っちゃおうか]
私はそう書いて返した。ドラマみたいな流れに、鼻息荒く静かに興奮していた。
その日は夜寝る前に、会い方について考えてみた。
学年や名前を明かすより、時間を指定してどこか学校の外で待ち合わせる方がいい。
でも、先に着いた私の姿を見て会うのをやめられたらどうしよう。それはショックで立ち直れない。
布団の中で身悶えて、その日はいつまでも眠れなかった。
「嘘、でしょ?」
二人の交流は、何の前触れもなく断絶されることになった。
翌日の放課後。黒板は跡形も無く消えていた。
埃がかぶっていた黒板裏のあたりも綺麗になっていたので、廃棄処分をしたついでに掃除をしたのだろう。
私たちをつなぐものが、突然無くなってしまった。まだ名前も姿も知らない相手を校内から探すのは難しい。
呆然として立ち尽くし、しばらくすると陽が暮れたので教室を出た。
この学校で、心でつながれる友達が初めて出来そうだったのに。あと少しだったのに。
もっと早く会えばよかった。悔やんでも悔やみきれない気持ちを抱えながら、前日の寝不足も相まってその夜は夕飯を食べるとすぐに泥のように眠った。

冬が終わり、春が過ぎて、五月になった。
私はいまだに授業を抜けて美術室でぼんやりしながら時が過ぎるのを待つような日々だ。
受験生になって、さらに教室には居づらくなった。私は勉強ができない。受験モードの教室内に私の居場所はなかった。
半年ほど前の、黒板のことを何度も思い出す。あれ以来私たちの交流は途絶えてしまった。
もしかすると、相手はもう卒業してしまっているかもしれない。私は一人、この学校に残されている可能性を考えて胸がつぶれるほど悲しくなった。
青いチョークを持ち出して、黒板があったあたりにある古びたキャンバスの裏にメッセージを書く。
[会いたい 会いたい 会いたい]
誰にも読まれないかもしれない自分の気持ちを書き出した途端に、心細くて涙が溢れた。
制服の肩口で涙をぬぐっても、なかなかそれは止まってくれなかった。
私はこんなにもさみしい。一瞬でも一人じゃないと思ってしまってから、こんなに脆く弱くなってしまった。
結局私は泣きながら、なにも持たずにそのまま家に帰った。
真昼に目を腫らして帰ってきた娘に驚いた母親が学校に連絡をしようとしたので、全力で止めて部屋に閉じこもった。
それでもまだ、私の知らないところに希望は残っていたのだ。
[十五日に駅の花時計の前で]
二日後に白いチョークで書かれたメッセージを見つけた時の私の気持ちを想像出来るだろうか。現実味のない破裂しそうな喜びに、動揺した私は口元を押さえ、その場で跳びながらぐるぐると回転した。
相手は同学年だろうか、年下だろうか。
白いチョークの文字を残しておきたくて、私はそれを携帯電話のカメラに収めた。
「十五日に、駅の花時計の前で」
嘘でも、夢でもなかった。
メッセージでは饒舌なやりとりをしていた二人だ。それでも、実際に会ったらどうだろう。
初めて会ったら何から話そうか。
私はプール一杯分くらいの幸福な気持ちにどっぷり浸かりながら、その白い文字を何度も読み返した。

5.9 黒板の日
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