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9.17 敬老の日

それは、初秋というには肌寒い、しかしよく晴れた日だった。いつもの駅で、いつもの改札を抜けた俺は、駅の景観を良くするために植えられたであろう欅の木の下で一組の老夫婦に会った。
旦那さんの方は、白い上下のスーツに、ブルーのワイシャツ、臙脂のループタイ、ロマンスグレーの髪に白いハットを合わせた小洒落た紳士のよう。奥さんの方は淡いパステルグレーのワンピースに、真珠のネックレスとイヤリング、指輪を合わせ、濃紺の低いヒールの靴を履いて、こちらもロマンスグレーの髪をシニョンに纏めたお上品な人だ。
そんな、昭和の海外ファッション誌から出てきたような二人だが、近づくとどうやら少し険悪な雰囲気で相対していた。
「本当にこちらで、合っているのかしら?駅員さんに訊いてみたらよいのじゃない?」
奥さんがやんわりと提案をしたところに、旦那さんの不機嫌な声が飛ぶ。
「お前はいつも、ごちゃごちゃうるさいんだ。今道を思い出してるところだろうがっ、黙ってろ」
「でもね、あなた。意地を張ってたら映画、始まっちゃいますよ」
映画、という奥さんの声がすれ違いざまに聞こえた。この町にある映画館はひとつだけだ。駅からゆっくり歩いて十五分程度。商業センターなどに入っているものではなく、単館系も扱う本格的なというか、渋い映画館だ。
大学生の俺は、たまに本当にやる事の何も無い時に、そこに映画を観に行くことがある。自分の理解のちょっと上をいくドキュメンタリーとかの映画を観て、駅前の喫茶店でジャズのレコードを聴きながらコーヒーを飲む。大人になったみたいな、有意義な一日になるようで気に入っている過ごしかただ。
俺は、一度通り過ぎて二の足を踏んだ後、思い切って欅の木の下に戻った。不機嫌そうな旦那さんに声をかけるのはためらわれたので、奥さんの近くで声をかける。
「あの、映画館はあっちの道を左です。良かったらご案内しますよ。僕も前を通りますので」
うまく出来たか分からない笑顔を浮かべると、奥さんが花が咲いたように笑ってくれた。
「まぁ、ありがとう。悪いですけど、案内していただけるかしら」
「ええ、是非」
旦那さんはまだ不機嫌そうな顔をしていたが、上映時間を聞くと二十分後だったので、すぐに歩き出した。

「では、こちらです」
映画館の前まで辿り着く間、奥さんはよく喋った。隣町に住んでいること、何十年ぶりかに旦那さんに映画に誘われて驚いたこと、張り切ってお洒落をしてきたことなどだ。俺の事もたくさん質問されて、片道四十分かけて大学に通っていること、文化人類学を学んでいること、彼女はいないけど気になる子がいることなどまで話してしまった。旦那さんは、終始むっつりとしながら街の様子を見つつ、最後尾を歩いてきていた。
「ありがとう。本当に助かったわ。ほら、あなた」
御礼を言って、という意味で奥さんがかけただろう言葉は、思わぬ形で返ってきた。
「君、映画は好きか」
俺は、首を傾げるのも失礼かと思い、はいと言って頷いた。
「時間はあるか」
きょうはアルバイトもないので時間はあるのだが、意図が分からずに、ええ、まぁと歯切れの悪い返事になってしまった。
奥さんは、落ちた髪を耳にかけながらにこにことしている。
「ちょっと待っててくれ」
そう言うと、旦那さんは大股でチケット売り場に向かった。目を丸くしたままの俺に、奥さんが初めて申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね、あの人あなたと映画を観たいみたい」
「一緒に、ですか?」
「ご迷惑だったら断ってもらっても大丈夫よ。私から説明しておくから、今のうちに」
だが、旦那さんの方はもう三人分のチケット代を支払っている。素早い。
「いえ、逆になんだかすみません」
旦那さんは、俺と奥さんにそれぞれポップコーンとオレンジジュースまで買ってくれた。
難しい映画だったらどうしようかと思ったが、二人が選んでいたのは未知の大怪獣が東京に上陸するというパニックものだった。感性が若い。手に汗握る展開で、俺と奥さんは、時々同じ場面で声をあげて驚いたりして、顔を見合わせて笑った。旦那さんが椅子から少し浮き上がった時は、気まずそうにしている旦那さんの顔を見て二人で笑いをこらえたりした。とても楽しい時間だった。

「あー、楽しかった。今の映画は迫力がすごいのね」
映画館から出ると、街は夕暮れに照らされていた。奥さんが伸びをする横顔が照らされて少女のように見える。その横顔をちらちらと見ている旦那さんの頬も赤く見えるのは、夕陽のせいだけだろうか。
俺は御礼を言い、駅の近くの喫茶店まで二人を送ることにした。お茶にも誘われたが、二人のデートをこれ以上邪魔するのも気が引けたので辞退する。
奥さんは、ずんずんと前を歩く旦那さんに聞こえないように小さな声で俺に耳打ちをした。
「私たちには、子供がいなくてね。あなたとの時間は孫と過ごすようで楽しかったわ。あの人も、いつもよりウキウキしてるの」
不機嫌そうに見えるかもしれないけど、長く夫婦をしていると分かるものなのよ、と奥さんがウインクをすると、前を歩く旦那さんがくしゃみをした。
俺は、何だかいいなぁと素直に思った。
俺の祖父母はこの二人ほど仲良くはなかったけれど、二人にしか分からない空気があったのかもしれない。そういえば、きょうは敬老の日だと思い出した。家に帰ったら久しぶりに電話でもしてみようか。
そして、こんな風に誰かといられたら幸せだろうな、と二人を見ながら少しだけ好きな人のことや未来のことを考えたのだった。
旦那さんが時々振り返って俺たちの居場所を確認するので、俺と奥さんは笑顔で大きく手を振り返した。

9.17敬老の日

#小説 #敬老の日 #JAM365 #日めくりノベル

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