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【読書感想文】目の見えない人は世界をどう見ているのか/伊藤亜紗

道を歩いていて、そこが坂道だということに気付く。
何度も通う家から保育園までの道。

そういえばこのT字路はいつも風が強く吹いていて、顔に風があたるのを嫌う長男は、この信号に差し掛かるたびにワーワー泣きわめいていた。その度に立ち止まり、すべての荷物を肩にしょいこんでバギーのハンドルを反対向きにしなければならなかった。私の顔がみえるように(風が顔にあたらないように)すれば彼は少し不安そうではあるものの少し笑って家までの下り坂をなんとか持ちこたえてくれた。

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私がその道を歩くとき、たしかにいつもバギーが転がりおちないように少し後ろ体重気味に歩いていた。歩道は狭く車通りは多い。注意しながらまだ歯も生えない長男のご機嫌をとるためにアンパンマンを歌って、たしかにゆっくりと坂道をくだっていたはずだったのに、それまでまったく気付かなかったのだ。なぜその交差点の風が強く吹いていて、長い下り坂が続いているのか。

その下り坂のずっと先、今は暗渠になっている遊歩道につながっている。つまりその昔そこは川辺だったのだ。気づけば保育園の住所には「丘」と記されている。風は高い丘の上から長い斜面を下り川に向かって通り抜けていく。そして脇には、当時は想像もできなかったであろう背が高いマンションが立ち並ぶ。どうりで風が強く吹くわけなのだ。

「目が見えること」で「見えないこと」があることに気付かされた瞬間だった。そして、そのキッカケをくれたのがこの本だった。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』伊藤亜紗

「目が見えること」私にはどれだけのものが見えているのだろうと不安になり、同時に「目が見えないこと」が何か特別なものとして取り扱っていたことに気付かされた。

例えば、暗算が苦手だけど計算機がある。話すのが苦手なので文章に書いて考えをまとめる。そうすることで話すよりもクリアに人に伝えることも出来るし、思いもよらなかった考え方を引き出せることもある。

もちろん、長男は話すことはできなかったけど、風が顔に直接あたるのが嫌なのだと泣いて知らせてくれた。それらは「可哀想」ではなく、それが「当たり前」でそれなりに「工夫」できるし、「そうじゃないと得られない感覚」を得られるチャンスを獲得していることでもあると教えられた。

ゼロ歳だった長男は、今ごろ保育園で誕生日会の真っ最中。
今朝の登園時、自転車の後ろに乗った彼は「今日からボク5さいだよね!」と全身で風を感じながら笑っていた。

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