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文学と農民は何故リンクしないのか;

『農民文学』20周年  2020年11月12日
サイト開設20年を迎えました。
平成12年/2000年1月30日の開設以来、今日で「直木賞のすべて」20周年を迎えました。 記事

 本屋大賞の最終ノミネート10作発表とか、小室哲哉さんの引退会見で、早くも直木賞の話題はふっとんでしまった感がありますが、基本、直木賞は、時事ニュースでもありながら、時事ニュースではなし。一瞬の盛り上がりのためにやっている事業じゃないので、そこを掛け違えず、これからも淡々と直木賞と付き合っていきたいと思います。

 それで、今週、直木賞関係の同人誌として注目したいのが、『農民文学』です。いまも(ほそぼそ)出ています。

 いまから40数年まえ、同誌が100号を迎えたときには、『読売新聞』「風知草」で、「オヤ、そんな雑誌が今でも出ているのか、というひとがいるかもしれぬが、」(昭和46年/1971年9月26日)などと書かれ、すでに当時から時代遅れの匂いをぷんぷんさせていたらしいんですけど、いまも変わらず、時代遅れの風味を醸し出している安定感。世の趨勢とは別の価値観で思いをかたちにしていこうという、同人雑誌のあるべき姿を、長年培っている、言わずもがなのレジェンド雑誌のひとつです。

 雑誌はともかく、「農民文学」と呼ばれる文学が、日本で最も隆盛を誇ったのはいつだったか。いろいろ議論はあるんでしょうけど(あるんでしょうか)、昭和初期、プロレタリア文学の流行がピークを超えて収束したあたりから、昭和10年代に戦争が激化するころまでに、ひとつ、農民文学の大きな盛り上がりが見て取れます。ちょうど直木賞がつくられた時代です。

 そのころには、純文芸誌だけじゃなく、『オール讀物』をはじめとする、いわゆる軽薄(……?)読み物雑誌にも、農民・農村をテーマにした小説が続々と載り、ここらあたりから直木賞が何か一つ、選び取ってもおかしくなかったんですが、「視野を広げていきたい」という直木賞の考えとは裏腹に、なかなかこの賞の運営はうまくいかず、けっきょく、ユーモア文学とか、科学小説とか、その当時ぐいぐいキテたジャンル小説と同様、農民・農村小説も、直木賞からは弾かれつづけてしまいます。

 しかし、この文学グループの偉いところは、この時期早くも、自前で文学賞を創設したことです。……いや、別に偉くはないかもしれません。ともかく昭和14年/1939年には、有馬賞と称される農民文学の賞をスタートさせ、昭和10年代から続々とできた文学賞のなかの一つを、このグループが担うことになりました。探偵小説・推理小説がこういう賞をつくるのは戦後になってからですけど、文学グループとしての結束を固め、かつ新しい書き手を顕彰し、外に向けて存在感を示していこうとするときに、文学賞を活用する、というのは、文学賞界にとっても新しい発見だった、と言っていいでしょう。農民文学、なかなかの優秀さです。

 戦時下では、他のあまたの作家たちの例に洩れず、国策の文学へと変貌させられ、明けて戦後しばらくは、その反動、反省などから大きく勢いを失ったんだそうですが、そんなことじゃヘコたれないのが人間のたくましいところ。昭和24年/1949年から、『家の光』によく書いていた文学者が「麦の会」という親睦団体を結成していましたが、そろそろ新たな時代に、新たな農民文学は必要だし、またそれを目指して立ち上がらなければいけない。と、戦前の農民文学の雄、伊藤永之介さんや和田伝さんなどを中心に、「麦の会」を前身として結成を呼びかけたのが「日本農民文学会」。その機関誌として、季刊を念頭に『農民文学』が創刊されたのが、昭和30年/1955年、折りしも石原慎太郎さんが「太陽の季節」で芥川賞を受賞して、文学賞がもう一段階、ステップアップする(?)ほんの少しまえのことでした。

 そして、この雑誌は創刊2号にして早くも「農民文学賞」の設立を宣言。やがて原稿を公募するようになって、他の文芸誌の新人賞っぽいテイストを身にまとうことになりますが、創設のころは、すでに発表された作品のみを対象にしていた、非公募の文学賞で、その点は有馬賞の衣鉢を継いだかのような、ジャンル小説のために設けられたものです。

 コノー、農民文学のみなさん、よっぽど文学賞が好きなんですね。……という感じで、ついニコニコとしてしまうのは、もしかしてワタクシだけかもしれません。賞の創設から8年ほど経った『農民文学』の編集後記には、こんなふうなことが書かれているからです。

「賞は、作品に与えられる結果の問題であることは明白です。「賞を目標の里程塚にするおろかさ」という評がわれわれに与えられたことがありましたが(後略)」(『農民文学』36号[昭和39年/1964年9月]より ―署名:(島))

 ああ。農民文学の人たちも、文学賞を抱えていて、まわりから何だかんだと、心ない批判を受けたんでしょう。いかにも正しいのはおれだ、ってイバり腐って「愚かさ」を語る人、ほんと、いやですね。めげずに頑張ってほしいと思います。

           ○

 これまで取り上げた同人雑誌にも、数多くそういうのがありましたが、『農民文学』と直木賞の関わりには、ひとつ特徴的なことがあります。書いている人たちは、文学の高みを目指している、それなのに芥川賞よりも、直木賞のほうが先に候補にしてしまった、ということです。

 『農民文学』誌に載った作品で、はじめてにして最後の直木賞候補となったのが、真木桂之助さん。何がどうめぐって農民文学会に加わったのか、ワタクシもよくわかりませんが、学生時代から相当、文学には熱を上げていた方だそうです。

 昭和3年/1928年、新潟県北蒲原郡加治村に生まれた真木さんは、県立新発田中学卒業、ただし中学時代はどっぷりと日本の戦争の時期にカブっていて、中学三年で予科練に志願し、入隊したものの途中で帰郷、四年生のときには勤労動員で工場で働きながら、特攻か本土決戦か、いずれにしてもどうやって戦って死ぬことになるのか、そればかり考えて暮らしていた、とのこと。

 17歳のときに終戦を迎え、学業のために上京すると文化学院に通い、そこで仲間たちと文学に熱中します。師事したのは、丹羽文雄さん。若い作家志望者への面倒見のよさでは、天下一品、という感じの丹羽さんですけど、真木さんがいくら小説を書いても認めてくれず、しかし、これが最後だ、これが駄目だったら筆を折ろう、と背水の陣で書いた一作が、何がひっくり返ったか丹羽さんの琴線に触れ、発表誌まで世話してもらえることになります。『文学の世界』第3号[昭和23年10月]、ここに載った「峠の螢」が、真木さんの活字になったはじめての作品、とのことです。

 しかしその後の真木さんは、中学校教師となり、昭和27年/1952年には故郷の新潟日報に入社。小説を発表することなく、地方メディアの中の人として悪戦苦闘、目の前の仕事をこなす日々を送りましたが、デビューから約10年、同人雑誌『農民文学』との出会いが、かつて文学青年だったころの熱気を思い出させたんでしょうか、ふたたび小説を書きはじめることになり、同誌に発表した一作目の「崩れ去る大地に」が、思いのほか高い評価を受けて、第2回農民文学賞を受賞。これはまもなく単行本にもなりましたが、賞をとるために書いたわけじゃないので浮かれもせず、また、小説で一発当ててやろう、という派手な野心があったわけでもないようで、仕事はやめずに、数年に一作ずつ、地道に『農民文学』に小説を書き続けては、一部、農民文学のグループからは注目される作家になりました。

 第51回(昭和39年/1964年・上半期)の直木賞が、真木さんの「海の侵入」を最終候補に残したのは、そんなころのことです。ちょうど当時、直木賞は、何だか芥川賞と競うように、積極的に同人誌から候補を探していたころでもあり、第51回の候補もほとんどが同人誌の作家で埋められ、だいたいがどうだこうだとイチャモンをつけられて落選、受賞作なしとなります。

 賞をとるために書いたわけじゃないので、真木さん、候補になったところで浮かれもせず……、とまたそんなことの繰り返しですけど、真木さんはとくに文学賞をとることもなく、しかしその後も、職業作家の立場ではなく、ものを書きつづけました。
※画像は記事とリンクしない




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