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記念すべきスキ〇〇回、いただきました。(染色)

CORONA・LOTION(a)

昨日は、「CORONA・LOTION」という謎の符号名を唐突に出して、訳もなく書きなぐり狼狽笑止千万でしたので、今朝はその詳細を解説しておきましょう。

🧴ローションは、昨日も説明したように男にはまったく縁のない女性専用、魔法の薬、化粧品のことです。なぜ、その「ローション」なのかといったら、いまニュースになっている「イージスアショア」(※それは、極秘の決定だった。建造に約4500億円の巨費が見込まれた「イージス・アショア」。“日本全域を24時間365日、切れ目なく防護する”という触れ込みの「陸の盾」だ。しかし政府はその配備を事実上、撤回。ミサイル防衛政策は、大きく変更を迫られることになった。)

と同様、まったく理解不能の情報ニュースでありながら、なおかつ重要問題とは認識しているものの、要としてその核心が不明という謎の話しであり、益々不可解として興味をそそられという代物だからである。

それは男の話しだが、ローションは違う。なにが違うかといったらただの水(中に含有する成分、企業秘密)によって化粧品企業の存亡に拘わる案件だ。

昨日のローション解説、末尾解説にこうある。

日本国内では、化粧水と乳液をあわせて使用することが一般的であるが欧米では日本の化粧水に当たるものを使用しないことが多く、海外化粧品メーカーでは、化粧水を主に日本向けとしてラインナップしているメーカーもある。例外的な使用法としてファンデーションや白粉に加え、粘度の調整やつけやすさを向上させる目的で用いることもある。日本では薬機法で決められた有効成分を含有していれば、「治す」といった違反にあたらない表現の制限範囲の中で効能を表示することができる。※資料ウイキペディア

そこに詳しく説明してあるが、なにを語っているのかさっぱりわからない。焦点はただ一つ「治す」についてであり、「薬事法」批准にあわせて抵触しないのであれば、その限りでない、ということだ。早い話、うそでもいいから、肌がすべすべ、と表現しておいても、「すべすべ」とは何をもってすべすべなのかが明確でないという点で「治す」といった違反にあたらない、のであれば、薬機法に触れないのであり、広告費(ネットもしくはテレビ)数千億円を投入しても損失はない。

テレビCMで今やっている家電広告で女シャーマンの水晶玉と、メーカー装備を比較した例が、それをよく形容している。本質的に紀元前から継承されている、そのシャーマン呪術世界は、いまだ現役で、紙一重でローション媒体もそのスタンスにある。

アバウトな表現をするなら、先の「イージスアショア」その他諸々、日本全般の社会に蔓延している各種バイアス類の、ほとんどがその「ローション」マニュアルで説明(極端逆説)出来、そして、それを金科玉条と崇拝する女性群垂涎の的が、イギリス産業革命以来(古くは紀元前世界民族化粧装飾)より継承されているというのは周知の事実である。

場合によっては今回のコロナウイルス感染を被って、アベノマスク外において、化粧頻度が極端に落ちて、その商品市場が低迷に陥り、中には倒産の憂うべき事態と、それを面白可笑しく書いているネット記事もあった。

昨今のニュースに至っても、作話的情報原稿も多く米中の水面下と水面上の丁々発止の攻防は、トランプ選挙戦も絡んで、ニュースが錯綜し「ボルトン」回顧録に至っては世界ベストセラーが約束されるほどの話題性がある。

世界経済指数に及んでは、乱高下予測はするものの、極端な下落指数をとらえて史上最大の下げ幅で世界経済破綻寸前など、煽りに煽って世の米富豪投資家たちは全株を手放したと豪語するわりには、儲け筋はきっちり保守するというしたたかさだ。

そんなこともふくめて、それらを総称し「ローション」・・・と呼称した。その「サイコロジー」である。これ以降、あらゆる記述は、それに準ずる。

その最初では、日本の古典技能の一つ、「染色」の取材記事を上げた。この染色方法も紀元前よりあったと思われるが、今やっている「黒錆」のやり方の「酸化と還元」の化学法が、すでに大昔から使われており、その一つに染色と型紙、が考案されたようだ。

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最近ニュースなどで耳にする「東京染小紋」という言葉。
「小紋」は着物などでよく使われる模様なので、和服を嗜(たしな)む方は良くご存知のことと思います。「東京染小紋」は「江戸小紋」とも呼ばれる東京の伝統工芸。染め物の町として、早稲田周辺が賑わっていました。

神田川沿いの西早稲田あたり。
昔はとても川の水がきれいで、染め物に適した場所だったそうです。
早稲田から中井にかけて染め物工房が軒を連ねており、明治時代には染め物の町として大変に栄えました。

そんな中で、職人たちの腕の見せ所となったのが「小紋」の染め物です。
和紙でできた型紙を使って染める小紋は、細かい柄になるほど、その型紙を掘る技術が必要になります。
細かければ細かいほど腕がいいと認定される……。
負けず嫌いな江戸っ子の染め職人たちが躍起になって競い合ったのは言うまでもありません。
この「細かい技術の競い合い」が、「東京染小紋」の美しさを作り上げたと言われています。

そんな早稲田の染め物屋も、今ではかなり少なくなってしまいました。
それでも100年以上の伝統を守り、江戸の工芸を伝え続けている工房もあります。
今回、東京オリンピックの公式オリジナル商品である「東京染小紋 風呂敷クロス」を手掛けた「富田染工芸」も、そんな西早稲田の歴史ある工房のひとつ。

明治の初めに創業した「富田染工芸」は、創業から使われている12万枚もの型紙が今でも保存されていて、現在でもそれを使って染小紋を行っているそう。
型紙を使って柄を付けた後に染め上げる一連の作業はとても難しく、最低でも10年の修業期間が必要だそうです。(記事引用)

東アジアの古代染色

染色 ブータン


ブータン中部のブムタンや東部タシガンで生産されたブータングッズ




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和更紗(染色)
和更紗
更紗(サラサ)は、インド起源の木綿地の文様染め製品、及び、その影響を受けてアジア、ヨーロッパなどで製作された類似の文様染め製品を指す染織工芸用語。
英語のchintzに相当する。日本ではインド以外の地域で製作されたものを、産地によりジャワ更紗、ペルシャ更紗、和更紗などと称している。
日本で「更紗」の名で呼ばれる染織工芸品には、インド更紗のほか、前述のようにジャワ更紗、ペルシャ更紗、シャム更紗など、さまざまな種類があり、何をもって「更紗」と呼ぶか、定義を確定することは困難である。一般にはインド風の唐草、樹木、人物などの文様を手描きや蝋防染を用いて多色に染めた木綿製品を指すが、日本製の更紗には木綿でなく絹地に染めた、友禅染に近い様式のものもある。 2020年06月26日付記事抜粋

更紗の特色は、その鮮烈な色彩や異国風の文様とともに、木綿という素材を用いること、及び、「織り」ではなく「染め」で文様を表していることにある。日本の染織工芸史を通観すると、正倉院宝物の染織品には絞り染め、板締め染め、蝋防染、木版などを用いた染め文様が多く見られるが、その後平安時代から中世末までは「織り」による文様表現が主流となっていた。
しかし、更紗の渡来によって「染め」の文様表現が再び盛んとなり、後の友禅染などの隆盛につながっている。「異国風」の文様表現のみならず、素材としての木綿も中世末から近世初頭の日本においては目新しいものであった。
それまでの日本の衣料の素材としては絹と麻が主流であり、木綿は普及していなかった。『日本後紀』によれば、綿の日本への渡来は799年(延暦18年)のことで、三河国(愛知県)に漂着した「崑崙人」がもたらしたものであったというが、栽培方法等がよくわからないままに絶滅してしまった。
日本に木綿が再び伝わるのは室町時代末期である。木綿は丈夫な素材で、保温性、吸水性も高く、衣服の素材として優れている。米作よりも収益性が高いこともあって、江戸時代中期以降、日本各地で木綿の生産が盛んになり、広く普及するようになった。

日本における更紗の受容
日本では室町時代以降、中国(明)との勘合貿易によって金襴、緞子(どんす)など、明の高級染織品が輸入された。
こうした輸入染織品は当時の日本で貴重視され、茶人により「名物裂」(めいぶつぎれ)と称されて茶道具を包む仕覆などに利用された。インド産の更紗裂も名物裂と同様、茶人らによって珍重され、茶道具の仕覆、茶杓の袋、懐中煙草入れなどに利用された。
こうした更紗裂は室町時代から日本へ輸入されていたものと推定されるが、更紗の日本への渡来が文献から確認できるのは17世紀以降であり、南蛮船、紅毛船などと称されたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの貿易船によって日本へもたらされたものである。
中でも、東インド会社を設立し、インドとの貿易が盛んであったオランダやイギリスの貿易船によって日本へもたらされたものが多かったと推定される。
「さらさ」の文献上の初見は、1613年(慶長18年)、イギリス東インド会社の司令官ジョン・セーリスの『日本来航記』に見えるものである。対日貿易開始のため日本を目指したセーリスは、1613年、クローブ号で平戸(現・長崎県平戸市)に入港。この時、火薬、鉄砲、ワインなどとともに更紗を平戸の領主に贈っている。

こうした、室町時代から近世初期にかけて日本に渡来した更紗裂は「古渡り更紗」と称されて特に珍重されている。彦根藩主井伊家にはこうした古渡り更紗の見本裂が多数伝来し、「彦根更紗」と通称されている。「彦根更紗」は現在、東京国立博物館に約450枚が収蔵されているが、作風から見るとその大部分はインド更紗である。

1778年(安永7年)には更紗の図案を集成した『佐良紗便覧』が刊行されており、茶人、武家など富裕な階層に独占されていた更紗が、この時代には広く普及し始めたことがわかる。現に、近世の風俗図屏風などには更紗の衣装を着用した人物が描かれたものが散見される。

更紗の語源
「さらさ」の語源については諸説あり、決定的な説はない。インド北西部の港であるスラト(Surat)が語源であるとする説が古くからあるが、「スラト」と「サラサ」の音韻には差が大きく、この説は現代ではあまり支持されていない。ポルトガル語のsaracaが語源であるとする説もある。
また、16世紀末のオランダ人、リンス・ホーテンの『東方案内記』に、綿布の名としてsarasoあるいはsarassesという名称が見え、これが語源であるとする説もある。

「更紗」という漢字表記が定着するのは江戸時代末期のことで、それ以前には「佐良佐」「紗良紗」などさまざまに表記されていた。
1713年(正徳3年)刊の『和漢三才図会』では「華布」と書いて「さらさ」と読ませている。この「華布」とは「文様のある布」の意である。また、江戸時代には「更紗」に相当する染織品を「しゃむろ染」とも称し、「紗羅染」「砂室染」などの字をあてている。たとえば、1638年(寛永15年)に刊行された『毛吹草』には「紗羅染」の表記が見られる。シャム(タイ国)方面を経由してもたらされた染物という意味合いで「しゃむろ染」と称されたものであるが、現存遺品を見る限り、こうした染物の大部分はインド製である。

世界各地の更紗

インド更紗
インドの染織は2,000年以上の歴史をもつが、現代に伝わるインド更紗はおおむね16世紀以降の品である。なお、エジプトのフスタートからは13 - 14世紀にさかのぼるインド更紗が出土している。製品は壁掛け、敷物などが主で、赤、白、藍、緑などの地に濃厚な色彩で唐草文、樹木文、ペイズリー文、人物文、動物文などを表す。このうち、唐草文はエジプトに起源をもつ古い文様で、壁掛け、敷物などの全面に唐草を表したり、主文様の縁取りに唐草を用いたりしている。樹木文は、生命の象徴としての聖樹を主文様としたものである。インド更紗はインド国内向け製品のほか、インドネシア、シャム(タイ)など各地に輸出されており、これらの製品はインド国内向け製品とは異なり、輸出先の地元で好まれるデザインが採用された。

染料としてはアカネ(茜)の赤、コチニールの臙脂(えんじ)色、藍などが用いられる。コチニールはサボテンに寄生するカイガラムシから得られる動物性染料である。インド更紗の作風は多岐にわたるが、大別して、目のつんだ木綿地にカラムという鉄製または竹製のペンのような道具を用いて、手描きで繊細な文様を表したものと、やや目の荒い木綿地に主に木版またはテラコッタ版を押捺して文様を表した、日本で「鬼更紗」と呼ぶものとがある(手描きと版を併用した作品もある)。前者の製作工程を略述すると次のとおりである。

木綿は耐久性や保温性には優れているが、染料の色が定着しにくい素材である。また、アカネなどの植物性染料は、明礬(みょうばん)、鉄、灰汁(あく)など、他の物質と化学反応を起こさせないと、染料単独では発色・定着しないことが多い。この、化学反応を起こさせる物質を媒染剤といい、アカネの場合は明礬が媒染剤として用いられる。

インド更紗の製作にあたっては、ミロバランという植物の実を煮沸して作った染汁で下染めした後、カラムを用いて媒染剤で図案を描く。これをアカネの染汁に浸すと、媒染剤を塗布した部分のみが赤く染まる。次に、これに青系統の色を加えるには、藍で染めたい部分だけを残して、布面に蝋を置く(蝋防染)。こうして藍染めを行うと、蝋を置いた部分は染まらず、蝋を置いていない部分のみが藍色になる。前述の鬼更紗は、アカネ染めのみで蝋防染の工程を省いたものが多く、文様も手描きでなく木版プリントによるものが多い。

ジャワ更紗
インド更紗の影響下に製作されたもので、蝋防染を主たる技法とし、バティックの名で知られている。文様を描くにはチャンティンと呼ばれる、銅製の小壺に把手のついた道具を用いる。これに溶解した蝋を入れ、細い注ぎ口から少しずつ蝋を出すことによって文様を表す。また、チャップと呼ばれる銅製の型を用いて蝋置きをする場合もある。色彩は藍色と茶色が特徴的で、茶色はソガという植物から取られた染料である。特徴的な文様としては、葉、刀、蛇などの連続文様がある。現代では、ジャワ産以外でも蝋防染で文様を表した布(ろうけつ染め)を一般にバティックと呼称している。

ペルシャ更紗
インド更紗と技法、文様ともに近い。植物文様にチューリップ、バラなどの洋花を多用する点が特色である。

シャム更紗
技法はインド更紗と同様、手描きと木版押捺とがある。文様は仏、菩薩などの仏教的題材をモチーフにしたものが多く、色彩は藍色を多用するのが特色である。

その他
他にロシア更紗、ジューイ更紗(フランス)(fr)、オランダ更紗などがある。これらは各国においてインド更紗の技法とデザインを模倣し、木版に代えて銅版を使用するなどの技術改良を加えながら発展していったものである。

和更紗
早くから作られたものに鍋島更紗があり、その他江戸時代後期になると日本各地で更紗の模倣品が製作されるようになり、天草更紗、長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗などが著名である。文様の表出には、手描きや木版のほか、日本独特の技法である伊勢型紙を用いた型染めがある。
伊勢型紙とは、現在の三重県鈴鹿市の特産で、渋紙を何枚か重ね、彫刻刀で繊細な文様を彫ったもので、これを布面にあてがい、刷毛で染料を塗り込むものである。近世の日本ではアカネ染めの技法が開発されていなかったため、全体に色彩は地味であり、文様も扇などの日本的風物を取り入れたものがある。
鍋島更紗は1598年(慶長3年)、朝鮮出兵から帰国した鍋島直茂が朝鮮から連行してきた九山道清(くやまどうせい)なる人物によって始められたとされ、染めには木版と型紙を用いる。焼き物の鍋島焼と同様、佐賀藩によって保護奨励されていたが、鍋島更紗の伝統は明治になって一時途絶え、1960年代になって地元の染織家鈴田照次が復活した。







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