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JAZZとBachは僅差か大差か

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これを記念として私の集大成JAZZとBachを書きました(再収録)2023/4/22

「ジャズの無双時代1958~9年」 2020年10月03日 16:16記事引用 voice代読有り

ジャズの無双時代:アメリカが生んだひとつの真のアートの台頭と隆盛Published on 4月 10, 2018
21世紀に入って20年近くが経過した現在、多くの人々の中では、ジャズはメインストリームの周辺的な立場に追いやられた音楽という印象かも知れない。勿論、言うまでもないことだが、“ジャズのゲットー”から這い上がり、メインストリームのシーンへとクロスオーヴァーして、ケタ外れな枚数のレコードを売り上げているミュージシャンたちもいないわけではない――最近で言えばグレゴリー・ポーターやダイアナ・クラールあたり――しかし総体的に見れば、もはやジャズからベストセラー・リストに食い込むのは難しいと言うべきだろう。
だが、かつては確かにジャズがポピュラー・ミュージックとして幅を利かせていた時代があり、世界中のラジオやジュークボックス、ナイトクラブやコンサート・ホールからはいつもジャズが聴こえていたのだ。フラッパーからビートニク全盛時代まで、ジャズは向かうところ敵なしだった。だが、その35年余の音楽界における権勢を終焉に向かわせたのが、ロックン・ロールという名の地殻変動的一大事であり、カルチャーにおいても音楽においてもまさしく津波の如き圧倒的なパワーで他のあらゆる種類の音楽をもたちどころに押し流し、存在感を薄れさせてしまったのである。その威力を悩ましくも笑える腰振り等で体現していたのが、ジャンルの王様として頂点を極めたエルヴィス・プレスリー だった。では、ジャズはいかにして世界制覇を成し遂げたのだろうか? その問いに応えるために、まずは1920年のアメリカへと時間を遡ることにしよう。その2年前に第一次世界大戦が終わり、平和な社会に対する期待と勝利による高揚感が相まって経済が一気に上向きになったことに加え、戦後の楽観的な空気に染まった若い世代が、個人レベルでの大いなる自由を求めるようになっていた。だが、これからはお気楽な快楽主義に根差した生活を送ろうという目論見は、新たな戦いを始めたアメリカ議会によってたちまちのうちに抑え込まれてしまう。それはまるで違う種類の戦争であった。人類の多くが抱える主要な悪癖のひとつを標的にした、道徳的聖戦である。1920年1月16日、犯罪や暴力行為や貧困率を減らし、アメリカ社会の生活水準を上げるという目的の下に、ボルステッド法が成立した。この法律は、アルコールの製造、販売、輸送、消費及び輸入を禁止するいわゆる禁酒法だ。

だが、歴史を見れば分かる通り――そして人間の習性として――禁止されればたちまち前よりもっと欲しくなるというのは当然の流れである。そんなわけで、結果的には禁酒法はその運用期間の13年の間、もっぱら増殖する密造酒造業者と組織的犯罪網による密売行為の触媒となっただけだった。禁酒法が施行されるやいなや、通称スピークイージーと言われる客に酒を出す違法クラブが雨後のタケノコのように後から後から営業を始めた。こうした‘邪悪の巣窟’(清教徒たちはそう呼んだ)では、酒は当たり前のように手に入り、まして金さえあれば、閉店まで飲み続けることも出来たのだ(警察に踏み込まれるまでの話だが)。無論、エンターテインメントはこうした酒飲み相手の店でも大いに需要があり、この放埓な快楽主義の時代に何より合っていたのが、エキサイティングで新鮮、シーンに出てきたばかりのシンコペーションがかったダンス・ミュージックで、ラグタイムとヨーロッパのマーチング・バンド・ミュージックとの間に生まれた私生児で、元は南部の娼家でアフリカ系アメリカ人たちによって生み出された音楽…そう、ジャズだったのだ。男性も女性も、1920年にようやく選挙権が認められたばかりの都会に暮らすアメリカ人の若者たちが、自分たちの個人としての自由を表現し、その解放感を自分なりの感覚で誇示したいと考えた時、彼らに率先して選ばれたのがジャズという音楽だったのである。あの時代、ジャズは革命のサウンドトラックだったのだ――あるいは、ごく控えめに言っても、祝祭そのものだったのである。ジャズの台頭がアメリカ政府の禁酒法導入決定と切っても切れない関係であったことに加え、その隆盛を支えたのは、音楽そのものを世の中に広める上で絶大なる影響を及ぼすことになる、ある重要な技術的発展であるグラモフォン(蓄音式)レコードの登場だ。録音された音源というのは1877年頃から既に出回ってはいたのだが、フォノグラフ(レコード)・プレイヤーが本格的に普及し始めたのは1918年、再生可能なレコード盤製造の特許期間が終了し、どこの会社でもレコードを生産することが可能になってからのことだった。だが、たとえ蓄音式レコードが発明されなかったとしても、20年代において紛れもなく最も重要なジャズ・マン、ルイ・アームストロングは恐らく何らかの方法で、後世にも知られる存在となっていたに違いない。ニューオリンズ近郊の貧しく荒廃した地域に生まれ、つつましく育ったルイ・アームストロングは、やがて世界で最も影響力のあり、明らかに最も偉大なトランペット奏者にまで昇りつめた。
そして勿論、その黄金のトランペット・サウンドに加えて、彼は一度聴いたら誰もがそれと分かる、独特のクセのある歌声の持ち主だった。 ルイ・アームストロングが最初にレコーディングをしたのはキング・オリヴァー・クレオール・ジャズ・バンドで、1923年のことだったが、間もなく彼は独立してホット・ファイヴやホット・セヴンといったグループで世の中を大いに沸かせた。彼の当時最大のヒット曲は 「West End Blues」や「Potato Head Blues」だった。ルイ・アームストロングの人気は30年代に入っても衰えの兆しを見せることなく、1971年に亡くなるまでレコーディングとツアー活動をずっと続けていた。キング・オリヴァーのバンドを離れた後、ソロとして活動を始める前の一時期、ルイ・アームストロングはニューヨークでフレッチャー・ヘンダーソンのバンドに合流した。元は化学者として研究所で働いていたが、音楽の方が実入りがいいことを知って転身を遂げたフレッチャー・ヘンダーソンはブルース・シンガーの伴奏を務めるピアニストから、やがて自身のジャズ・バンドを結成して20年代半ばにはビッグアップルでも屈指のホットな存在となっていた。フレッチャー・ヘンダーソンがこの時期出した中で最も人気を博したレコードは、快活な「King Porter Stomp」だったが、作曲家のジェリー・ロール・モートンによれば、この曲は20年も前に書きあげられていたのだそうだ。ジェリー・ロール・モートンはまた、1926年にリリースされたポピュラー・ナンバー「Black Bottom Stomp」の作家でもあり、曲と同名のダンスも大流行となった。ルイ・アームストロング同様、デューク・エリントンも20年代に登場し、亡くなるまで長年その人気が衰えることのなかったミュージシャンである。
都会的で垢抜けた、品の良いデューク・エリントンの音楽は、彼のパーソナリティをそのまま映し出すものだった。彼の名声は1927年、彼の率いるオーケストラがハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのハウス・バンドになったのを契機に一気に広まった。だが、ジャズは決してアフリカ系アメリカ人たちだけの専売特許ではなかった。ビックス・バイダーベックやポール・ホワイトマンらをはじめとする白人ミュージシャンやバンド・リーダーたちも、早々にこの音楽をモノにし、それぞれ自分たちのスタイルを築いていった。その結果として彼らはアメリカ国内だけで多くのレコードを売り上げ、更なるジャズ人気の高まりに貢献したのである。ハリウッド映画もまた、ジャズ人気の定着に力を貸し、アメリカにおけるそのカルチャー的な存在感を強固なものにする一助となった(奇遇にも、史上初の‘有声映画’は1927年のアル・ジョルスン主演による『ジャズ・シンガー』だ)。
だが1929年10月29日、世界を激変させる事態の勃発が一気にジャズの時代の幕を引き下ろし、20年代の定義だったノンストップのパーティーを終わらせる。支払いを清算しなければいけないのに、金庫の中の金が足りなくなったのだ。結果として、アメリカ金融市場における株取引価格の史上稀にみる壊滅的な大暴落により“ブラック・チューズデイ”に起こったウォール・ストリートの破綻は、大恐慌と呼ばれる時代の引き金となったのだった。


モダンジャズから現代ジャズ(1960年代前半~現在)

試行錯誤するジャズ――「脱ハード・バップ」の動き、他ジャンルとの融合

しばらく続くと思われたハード・バップを中心とするジャズの潮流を変えたのはまたしてもマイルス・デイビス。
ハード・バップまでの曲のコード進行に沿って一定の小節を吹き終えたらまた頭のコードに戻り、アドリブの掛け合いをする奏法から、現代音楽などに見られる音階、つまりメロディーラインを生かしたモード奏法への脱却を試みたのです。集大成ともいえるのが1959年の「カインド・オブ・ブルー」。初めの一音を聞いただけでも、新たな歴史の萌芽が感じられる名盤中の名盤です。この後、マイルスは60年代、ハービー・ハンコックやウエイン・ショーターらと黄金クインテットを結成し、モード・ジャズを牽引しました。
「カインド・オフ・ブルー」に愛弟子のテナーサックス奏者、ジョン・コルトレーンが参加していたことも見逃せません。彼はこのアルバムの直後に録音された「ジャイアント・ステップス」で超絶技巧を駆使した、畳み掛けるような音符の嵐で聴く者だけでなく、共演者までも圧倒する「シーツ・オブ・サウンド」を披露し、ハード・バップの到達点を示しました。ハード・バップを極めたコルトレーンにモード奏法という新たな「武器」が加わり、自分の感情や思想を音楽という手段を通じて最大限爆発させたいと考えていたコルトレーンをコードの束縛から解放しました。これが後に触れるフリー・ジャズの広がりにも繋がっていくことになります。
ハード・バップの余韻を残しつつ、新たな方法論を産み出したマイルスとその弟子によるラインとは別に「自由への飛翔」を模索していたのがアルトサックスのオーネット・コールマンでした。彼の音楽、いや音楽というよりも阿鼻叫喚、喜怒哀楽といった人間の感情そのものを表現したかのような「音の原風景」ともいえる演奏は当初ほとんど受け入れられなかったといいます。しかし、前述したマイルスやコルトレーンによる「ポスト・ハード・バップ」に向けた試行錯誤の動きや、アルトサックス、フルート、バスクラリネットを駆使して従来のジャズとフリー・ジャズの間を巧みに空間移動し、橋渡し役を果たしたエリック・ドルフィー、「激情型ジャズ」の代表格ともいえるベーシストにして名作曲家、有能なバンドリーダーでもあるチャールス・ミンガスなどの精力的な活動が融合し、フリー・ジャズの大きなうねりが生じました。
1970年代にはマイルスや彼の弟子のハービー・ハンコックやウエイン・ショーター、チック・コリアらがジャズに電子楽器やエイトビートのようなロックの要素を取り入れたフュージョンを演奏するようになり、一躍ジャズの主流に躍り出ました。特にショーターとジョー・サヴィヌルが中心となって結成した「ウェザー・リポート」、チックの「リターン・トゥー・フォーエバー」はジャズ・ファンでない人々にも支持され、ジャズの可能性を広げました。しかしその反面、フュージョンの台頭は伝統的なジャズの衰退をも意味していました。かつてジャズが聴衆を熱狂の渦に巻き込んだ時代は終わり、「暗黒時代」が到来したと嘆息した人々も少なくありません。
1980年代以降はウイントン・マルサリスなどの若手を中心に、フュージョンからの「揺り戻し」を狙った伝統的ジャズの見直しの動きが広がる一方、クラシックや民族音楽、ポップスなどとの融合も進み、一言で「ジャズ」と括れなくなるほど多様な音楽へと進化しています。

バッハ1685-1750 パーカー1920-1955

チャーリー・パーカー(アルト)

クラシックとジャズの饗宴
 すっかり外界の世間は日常生活に戻った。かつては旧暦「七草」が一つの節目で、それより仕事初めのようだった。

 いまは世界標準で社会は動いているので企業もそれにあわせ4日から仕事の事業所が多いようだ。日本の帰省もそれに沿って動いている。今朝、海の「日の出」をデジカメに撮った。幸い、海の近くに住んでいるので、気が向いたとき、日の出を撮ればいい。それが今日だったので、今朝の6時30分過ぎの陽を撮ってきたので載せてみた。 

チャーリー・パーカー(Charles Parker Jr, 1920年8月29日 - 1955年3月12日)、ジャズアルトサックス奏者。

 「チャーリー・パーカー」は、ほとんどジャズの代名詞といって云いくらい、知名度があり、またそれに相応しいジャズの巨匠である。 
 生まれは1920年だが、ほとんど伝説化し、あと数年もすると神格化するに違いない。いやすでに神の域にいってるかもしれない。理由は、「薬浸け」日本流に云うとシャブ浸けだから、その経歴には必要不可欠の一項目だ。
 
 なにをバカなことを云う、という指摘もきこえそうだが、その当時と「今」は、これをやると一流だという間違った認識が移植されているから悪しき業界でもある。
 
 私が好きだったアルト奏者の「アートペッパー」は麻薬中毒アルト奏者として特に名を馳せた。彼は、それで命を落とした。近年ではベースのジャコ・バストリアスが薬物依存でやはり若くしていってしまったが、一説では精神的病魔にも冒されていたという話もきく。
 
 兎に角、昔のジャズミュージシャンは、ほとんど総舐めでシャブ浸けだった。昨年、古い映画のアーカイブで、ジャズメンが薬物を断ち切るのに、フランス渡航までして、処方したのはいいが、アメリカ帰国したその日に、昔の組織仲間が薬物を届けるという、まさにシステム化した「シンジケート」が歴然と組まれているという現実に、薬物依存の根の深さに驚愕した。

 覚醒薬物、その他幻覚などの作用を喚起させる行為は、戦争時の気分高揚、異常なテンション上昇を狙って、人間の正常心を削ぎ落とすものとして使われたという話を見聞しているが、なかなか説得力のある説話だとおもう。しかし、それを音楽だとか、一時の快楽エクスタシーに使うというのは間違いだ。最近ではハーブの事例があるので、いまさらそれをおさらいする必要もないが・・・。
 
 そうして「チャーリー・パーカー」は東奔西走しながらジャズと麻薬に明け暮れていた。こんな逸話もある。

 とあるジャズクラブ、夜も更けて客席も賑ってきた。前座の下手くそなトリオのバンドがステージから引けると、しばらく休憩になる。

 いつものようにケースからリードを出し、3タイプあるリードを指先でなぞってみる。今日は体が載らない、ソフトリードでいくか、と舌で舐めてみたが、それでもしっくり来ない。そんなことを10分以上もやっていると、廻りが気にする。いつも不機嫌なリード選びをやっていると、その日の演奏は、きまって旨く行った、ためしがないからだ。
 
 首を廻しながらキョロキョロしていると、端のコーナーでそっぽを向きメロディースキャットしているラッパ吹きが、こちをちらっと見た。ほんの数秒、視が会うと、そいつはサッと腰を上げて、部屋から出ていった。
 腕の時計を見るとステージインまで6分あった。なんとか間に合うか・・・、そう思ったかどうか解らないが、パーカーは最後のリードを選んで、口に含んだ。甘ーい味がした、と思ったのは錯覚だ。

 その日の体調に合わせてリードを選ぶが、何回も、そしてどうセッティングしてもかみ合わないときがある。ま、ほとんどその場合、そっちの方が多いなあーと、半ばあきらめだった。しょうがねーかと、そのリードを口にセットして息を入れてみると案外いける。時計をみると1分前だった。
 椅子から腰を上げると、部屋から出て行ったデビットが戻ってきて、手にしていた小さな包みを、バーカーのポッケに突っ込んだ。
 ボーイが控え室に顔を覗かせ合図を送る。もう一人のドラムと三人はステージに向かった。客席からやんやの喝采。12分の長演奏ライブも、やってみれば上出来だった・・・。

(創作物語話「ジャズ千夜一夜」。サックス、チャーリーパーカー。ドラムス、ロイ・へインズ。トランペット、マイルスのトリオ。この当時パーカーは既に薬物依存症で、そのとりもちがマイルスだったと云われる。マイルスは、若いながらも裕福な家に育ち金には困っていなかった。そうした格差がパーカーを助けた。勿論二人は師弟関係にあり、マイルスも学ぶものも多かったに違いない。そして、その当時にあってパーカーはクラシック音楽の洗礼を既に受けていて、バッハの旋律を研究していたという伝記を読んだことがある)。
 
チャーリーパーカー紹介
アメリカ合衆国カンザス州カンザスシティに生まれ、ミズーリ州カンザスシティで育ち。
子供の頃より、並外れた音楽の才能があった形跡はなく、彼に大きな影響を与えたのはインプロヴィゼーションの基本を教えた、若きトロンボーン奏者だった。(天才肌ではなく努力の人、というわけだ)

父親はT.O.B.A.(アフリカ系アメリカ人によるヴォードヴィル)のピアニストやダンサー、歌手といった音楽への影響があるかもしれないと語っている。
(ほとんどのジャズメンは、こうした経歴の親をもつ。必然的にその子は音楽に強い影響を受ける。とっかかりは教会音楽・ゴスペル・ブルースなど)

1945年から1948年に掛けてが活動の最盛期であり、天才的なひらめきを伴ったそのアドリブは伝説化している。1945年、若き日のマイルス・デイヴィスを自分のバンドに起用した。1947年にはマイルスの初リーダー・セッションもサポートする。
(この転機がジャズを世界的なレベルに引き上げた。)
若い頃から麻薬とアルコールに耽溺して心身の健康を損ない、幾度も精神病院に入院するなど破滅的な生涯を送った。1940年代末期以降は演奏に衰えが見られるようになった。衰弱により心不全で早世した。(ウィキペディア検索〆)

オーストリアのジャズ
いま、クラシック、とくにバッハをジャズピアニストが弾くのが流行っている。流行っているというのは語弊がある。超絶技巧のジャズピアニストをもってしてもバッハを弾くのは難しい。いやそれ以上の壁があるようだが、単に「難しい」としておこう。 
バッハについては時代も考慮して、その当時のバッハを再現することは不可能で、鍵盤楽器の構造とか基準音の周波数設定だとか、そっくり再現することは無理だろう。

今では、その当時とまったく異なる録音環境が出現し、コピーすることが一気に加速した。その手本となったのが「グレン・ハーバート・グールド」で、このピアニストがいなかったら、キースもチックもバッハを弾いていなかったのではないか、そう思わせる記録がレコードに残されてる。
 
それともう一人のバッハ弾き、フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda,1930年5月16日 - 2000年1月27日)である。

彼はオーストリアのピアニスト・作曲家で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの演奏をこなしていたオーストリアのピアニストとして名を馳せた。
その彼は「グレングールド」(1932年9月25日 -1982年10月4日、カナダ トロントの生まれ)、と2年しか差がなく、よく間違われた、という逸話がある。 
 昨年暮れから正月にまたがって、NHKFM放送で、このグルダ特集を放送した。ホストが小曽根真で、彼もいまモーツアルトに心酔していて、現地に赴いてモーツアルトを弾いたと話していた。まあご存知だとは思うが、彼はジャズピアニストである。 
その放送で小耳に挟んだ話し、かのジョーザビヌル(ウェザーリポート)と知己の友で、お互いステージセッションもしている、という話を訊いて長年のモヤモヤが一気に氷解した。

というのもジョーザビヌル(ウェザーリポート)という名からして、アメリカではない、と思いつつ、では何人かという疑問を抱き続けていたが、クラシック音楽の都オーストリアと訊いて「ああ、そうだったの!」という超納得度で感嘆した。 

ジャズピアノ弾きがバッハ、ベートーベンを弾く。やはりこれも時代の変遷度合いなのだろう。そこに欠かせないのが、記録された音源だ。
かりに、彼らがバッハをコピーしようとしたとき、グールド、グルダの音源がなかったら、数倍の時間と努力が必要であったことは想像に難くない。
(ジャズピアノのキースジャレットがバッハを弾き録音しいてる)

スタンダートジャズの名曲は、数え切れないほどあるが、それを年代差で、ほんの少しのタッチと、テンポを変えただけで、新しい曲が生まれるというのだから、ジャズの世界はさらに進化するだろう。
そしてクラシックスコアーをパソコンにインプットし、デジタルクラシックを聴きながら、新たなジャズコンポートの領域が開け、その世界が広がろうとしている。 

そこに到達するにまでにはアメリカ、ニューオリンズのジャズステージで、葦のリードをいじくり回していたパーカーと、その一部始終を注意深く見守って師匠をサポートしていたマイルスのコントラストが、時空を越え本人も知らないところで、いまくっきりと浮かび上がる。


voice.KORGコルグ&ジャズFILE

フューチャー ハウス ミックス DJエレメントミックス
https://soundcloud.com/elementdj505/future-house-mix/recommended


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