
昔の映画と過去の音楽と、今の自分
『若い頃に見た映画を今見ると「今の自分」が鑑賞するけど、若い頃に聞いていた音楽を耳にしたり頭の中で浮かべると「当時の自分」が呼び覚まされるのはどういう仕組みなんだろう。』
若い頃に見た映画を今見ると「今の自分」が鑑賞するけど、若い頃に聞いていた音楽を耳にしたり頭の中で浮かべると「当時の自分」が呼び覚まされるのはどういう仕組みなんだろう。
— Kaori@おはなピアノ調律 (@mamapiano2017) September 4, 2023
とはいえ、そこまで一般化はできない現象なのか、作品にもよるのか、個人差あるのか。
最近同業者の方の何気ないポストから考えさせられることが多いです。この現象、確かにそんな気がします。
kinki kidsの「フラワー」を聴くと自転車で友達と近所を走り回っていた中学生のときのことを思い出しますし、ラルクの「STAY AWAY」が流れればギターをはじめた高校生、SHAKALABBITSの「pivot」は遊んでばっかりだった専門学校時代...イントロから当時の空気感を一瞬で思い出します。
そこに当時よりも知識と経験を備えた「今の自分」の入る余地はあまり無いです。今の自分に到達する前に当時の自分がすっと割り込んでくる感じ。
これが映画だと逆で、改めて鑑賞するといろんなことに気づいたり、主人公以外の人物の視点で観られたり、当時は思いもしなかった感想が出てくることが多いです。ノスタルジーよりも、冷静に今の自分の感覚で観ることができます。
子供の頃、映画「ドラえもん のび太の日本誕生」がすごい好きで、あのワクワクや怖さを思い出したくて大人になって観たことがあったんですが、なんか冷静に観てしまいました。続けて観たリメイク版「新のび太の〜」の方は初めてなのに「あの頃」を感じて不思議な感覚でした。
音楽は1曲を下手したら何百回と聴いています。映画は繰り返し観たものでもせいぜい十数回でしょうか。回数の違いはあるかもしれません。でもそれでは説明がつかないような、もっと感覚的なことな気がします。
聴覚のみの音楽と、視覚と聴覚の映画
視覚の情報量は聴覚の100倍とも、それ以上とも言われます。
情報量の多い映画と言う媒体はそれ単体で完結できるものです。
音楽は、勉強をしながら、友だちと話しながら、家族で車に乗っているときに…誰かと何かをしながら聴くことも多いので体験と深く結びついているのかもしれません。むしろ体験と結びついてこそ完成するのかも。
でも同時に、音楽は自分ひとりのものと言う感覚もあります。映画は人と感想を言い合ったり感覚を共有できるけど、どこまで行っても音楽は孤独。
プレイヤーであること
もうひとつ重要な気がするのは、自分の場合は音楽は能動的なものでもあると言うこと。
歌ったり、弾いたり、プレイヤーとしても関わるものでもあるので、その時の自分と強く結びつきやすいのかもしれません。そういう意味では、昔のゲームを遊んだときも音楽と同じように一気に当時の自分に戻る感覚があります。

どちらも「自分」を色濃く形成しているもののはずなのに、違った距離感の映画と音楽。
情報量が限られているからこその音楽の内向きな魅力と、総合芸術である映画の外向きの豊かさという違いなのかなと思いました。