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光が降りて来た

朝起きて、カーテンを開ける。
この習慣ができるようになったのも、だれもが寝るだろう夜に寝て、だれもが起きるだろう朝に目覚めるということができるようになったおかげだ。
人並みになれた、私は思う。

朝日のまばゆさに、空の雲の状態を見て、今日はどんな一日にできるだろうと一瞬でも夢想する。
もしくは、どんな一日になるだろうか、と。


昨日書いたこの記事をお読みになってない、もしくは読まないと選択した人にはこの先を読むことをあまりおすすめしない。
違うことも書くけれど、昨晩の顛末を伝えることになるからだ。
虫が好きだったり、嫌いだったり、あるいは生き死にに関わる話が苦手なひとは読まないでいただいた方がよいと思う。


朝の陽の光を拝むと同時に、ぶらりとなにかが窓ガラスにはりついたような様子を、私はぜったいに見たくなかった。

昨日の私は気にせず窓を勢いよく閉めたことで、知らずしてくもに対して死に至るだろうけがを負わせた。(死んだかはおそろしくて確認できなかった)
そしておそらく、記事を書きながら、きっとあのくもは死んだにちがいない、と思い続けていた。

記事を書き終えても、心は淀んだままだった。
明日を待たずとも、結果を見つめたければ今すぐカーテンを開け放てばいい。
自分がしでかしたことをひとりで見つめるのは、相当に勇気がいる。

夜遅く、父が帰宅した。
私がしでかしたことを説明し、確認してくれないかとお願いをした。

最初、「虫は殺さない主義だから」と断っていた父へ、何度か押し問答をした。
どうにかこうにか「一緒にでもいいので、確認してほしい」と拝み倒した。
一人で見つめるのは怖いのだ、と。


カーテンを開ける。
室内の蛍光灯の光が、外へこぼれる。
見たくないけれど見なくては、と、くもの体液が窓ガラスに落ちた辺りを見つめる。
その少し上に、くもの死骸がぶらりとはりついていた。
漏れた体液でからだが窓ガラスへくっついてしまったのか、それとも最後の力で落ちるまいと窓ガラスへ足をひっかけたのか。

黒いくもの躯を見つめ続けることはできなかった。

父は「まぁ、なんだ。……乾燥したら落ちるだろう」と、母と同じようなことを言った。


雨戸をぱたぱたと叩くような音に、雨が降っているのだと知った。
やってしまった、と罪悪感に押しつぶされそうな気持ちで、けれど同時に「雨がくもの死骸を押し流してくれれば」と思いもした。

朝起きると雨音などせず、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。鳥の声。
昨晩、くもの死骸がぶらさがっていた窓には、体液がべっとりとついた跡と、窓が互い違いになった上の方、蜘蛛の巣があることに気が付いた。
反対側にも蜘蛛の巣。
秋になってひんやりするようになっって窓がしばらく開かなかったから、巣を作りやすい環境を私自身が作り出していたようだった。

外に出れば、雨上がりの空だからか、思いのほか澄んでいる。
色も、空気も。
雲の合間から、太陽がのぞく。

光が、降りてきていた。

雲の影すらも見えるようで、私は陶然としてしまった。
この感情を、なんと言えばいい。
どう、表現したら。


写真を撮るのはあまりうまくないのだけれど、タイトル画像の写真はそのとき撮ったものだ。
実際はもっときれいだったのだ。
ことばでは思いつかないほどの。
神々しいとも違う、厳かなようで、静謐な、なにか。

身勝手な話だけれど、ゆるされた、と錯覚を覚えてしまうくらいには。


……蜘蛛の巣は窓の縁に二つも残っているし、たぶん私はあえて掃除をすることもないだろう。
くもの名残はきっと、強い雨で洗い流されるまで、しばらくあり続ける。

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