にった

演劇のことや演技のこと、忘れたくないことなどのメモです

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最近の記事

「おいとけさま」に代わるもの

結構前ですが、NEO表現まつり・鳥公園の『abさんご』/2022年度の研究報告と座談会いってきました 鳥公園の西尾さんが新しい劇作論を書くため、3年にわたり『abさんご』を題材に試行してきた企画の、報告会とゲストを招いた座談会で、 西尾さんの問題意識が見えてきた回でした 近代的な個の輪郭をほどく、とは 役と俳優が1対1で結びつかないありかた、というふうにわたしは捉えたのだけど つまりそれはある種のスタンダード演技(以前ののnoteで書いた、舞台上に俳優が役に見えるように振

    • ナチュラルが要請されない台詞、キャラを立てる、演じることを肯定する

      お布団『ザ・キャラクタリスティックス/シンダー・オブ・プロメテウス』ありがとうございました 今回試したことと、お客さんの感想をもらって考えたことなどメモです ■ナチュラルなことが要請されない台詞お布団の得地さんの書くセリフは、いわゆる口語では全くなくて、小説のように情景描写や心理描写があったり、主語が明確にされていたり、基本的に、ナチュラルに生っぽくしゃべることは想定されていないだろう文体です 最近私の流行としては、ある種リアリズムではないところで演技することなので、こ

      • 戯曲をゴールにしない演技をしたい

        一般的に、オーソドックスな演技といえば、総じて、舞台上で役が役のように振る舞うことことを指している、と思う スタニスラフスキーが書いた『俳優の仕事』には(以下は私の読書メモだが)「役を生きる芸術」「俳優は意志を離れて、役の生活を生きることになる」「≪与えられた状況≫のなかに、真実の情念がある」「≪与えられた状況≫を真剣に生きると、おのずと情念の真実が生まれる」とか書いてある (≪与えられた状況≫とは、役の置かれた状況のこと、おそらく一般的な設定とかではなく、役にとっての、

        • 色気とはなんぞや

          【ベクトルが相手にしか向いていないと】 いつかのメモ 演技で、例えば対話で、 話す相手は一人、つまり1対1というとき ベクトル(意識や行動の方向という意味で使っています)は相手に向きがちになるけど そこにしか力が働かない、流れが起きない?というのは その他の空間を無視しているというか ベクトルの中にしか事象が起きない、どころか、 なんならベクトルを強くしようとするあまり基点となっている立ち位置とかも見失って見えるかもしれない 自分の立ち位置、存在がしっかりし

        「おいとけさま」に代わるもの

          「演じる」の目的になっているもの

          日仏演劇協会オンライン講座 「西洋演技論史講義 第1回「西洋演技論史」とは何か」 を受けて、考えたこと 横山義志さんのzoom講義、いろいろ考えられて面白かった 第1回らしいので続くんだろう、私のメモ見て気になった人は普通に次回からの講義を受けるのがおススメです、私のメモとか間違ってる可能性全然あるしね まずは講義メモ (これは私の考えたことを踏まえるためのメモで、当然ながら講義はもっと広く深くでした) ■演じる、という言葉は○○を演じる、という使われ方をするが、

          「演じる」の目的になっているもの

          どこに向かっていくのか、なにが開かれていくのか

          結構前のメモ *** 会話劇、観るのも演じるのも好きなのですが、この間観劇したときに、私の処理能力が追い付かず迷子になったので、私は会話劇で何を見て楽しんでいるのかという整理メモ まずあげられるのは「言葉」そのものだと思う わたしは言葉フェチなので、グッとくるセリフとか良いラインとかはめちゃくちゃヒットする でもここは作家の力で、俳優には何ともできないので今はいったんおいとく (いいラインを書ける人は本当に尊敬する) つまり俳優が会話劇で出来ることは、言葉以外と

          どこに向かっていくのか、なにが開かれていくのか

          レベルをそろえる

          某WSで参加してた俳優さんが言ってた「物を使わないでマイムで表現すること」「俳優の性別や年齢に即さない配役にすること」について話していたことが面白かったのでメモです ひとつめは身体とモノの関係で、 コーヒーを飲む、という行動が舞台上にあるときに、 実際にある俳優の身体と、実際にあるコップや飲み物で「飲む」ことはできるが コップや飲み物がないときに「飲む」となると 実在する身体と実在しないコップでは釣り合ってない感じがするので、 実在する身体から具体性を引きたくなる

          レベルをそろえる

          空間と身体

          言葉が空間に作用する場合と、肉体が空間に作用する場合がある わたしは言葉をかなり重視してきたけど、それは上演の手前にテキストがあって、空間は劇場に入らないと分からない、みたいなこともあると思うけど(とはいえ稽古場も空間である) それによって言葉に重点が寄ってしまっている わたしは言葉が空間に作用するのも肉体に作用するのも感じているけれど 言葉をうけた身体が空間に作用することも 言葉の手前にある身体が動き出すことも、空間を動かすこともしっている 肉体が言葉を生むこともある

          空間と身体

          イメージする

          イメージする、という言葉から受ける具体性や、イメージをする、という仕方は、実は人によって違う、ということをこの間共演した俳優さんと話していて気付いた 間取りを立ち上げる、というシーンがあって、 もっとイメージを強くしてください、みたいなオーダーがあったのだと思うのだけど、 というかイメージするってなんだ?どうやってイメージしてますか?みたいな話になって、演出家も交えて一緒に話した わたしは間取りをイメージする時に、私から見える風景、私の目線がカメラであり、部屋の中にい

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          イメージする

          本質とウェットさは結びつかない

          演技にはウェットなのとドライなのがあると思っているのですが 良しあしではなく、あくまでも質のちがいとして ちなみにわたしの演技は圧倒的にウェットです、超ウェッティー で、そのこと自体は何となく自覚してたのですが、ふと最近気づいたのが、 それって私が人間の本質をウェットだと思ってるからじゃないか?という わたしは、演技するからには、やはりその人物や物事の本質を突き詰めたいというか、 演じる人物や事象をあらゆる角度から見極め、吟味し、真実をやるぜ(?)みたいな気概があ

          本質とウェットさは結びつかない

          (メモ)演技と演出の領分

          演技態を考えるとはどういうことなのか 小説を上演にするという試みがあって、考えたことなど 上演=立ち上げること、と思っていて そもそもテキストを立ち上げるとは 【テキスト】<【事象】<【観客】       ↑演技               ↑演出? 立ち上げる作業は演技でありうるけど、立ち上げた先(観る人)がいることは無視できない。この<観せる>表現は即ち演出なのか??? や、もちろん、演技もかかわってくる、当然ながら 【テキスト】< 【事象】< 【観客】  

          (メモ)演技と演出の領分

          ナイトドミナントふりかえり

          ■演技の組み立てのこと すでに上演された作品(かつ、かなり稽古場で見ていたもの)を、改めて上演するのは難しい、、というのがスタートでした というのも、WIPでは制作補佐だったのですが、稽古場オタクなのでかなり通っていまして、 どうしても台詞をWIPの演者さんの音で覚えてしまっていて、それと連動させてセリフを発している感じになってしまい、そこから脱するところから始めることにしました 自分ならどうそのセリフを発語するのか?というのを確認するところからというか あと、得地さん

          ナイトドミナントふりかえり

          なぜさけんでいるのか

          演技が初めての人に、どういう演出をつけたらいいのか、という話と、 人が叫んでいるお芝居は苦手、という話。 だいぶ前に、映画をつくる人とそういう話をしたのでメモ。 叫んでる人が苦手な話から書きます。 舞台を観に行くときに、叫んでいる人を見るのが苦手、という話を聞きました。 たまに役者が終始叫んでいる作品とかあるけど、あれはなんでなんですかね、という。 私もそういうお芝居あまり得意でないのですが、じゃあなぜそういうお芝居になるのかというのを考えまして、 どういう順路で叫ぶ結

          なぜさけんでいるのか

          試行と上演の差

          冷静になってきたので、おわれる、の振り返りです 意味と輪郭、平面と立体 こんなことを考えながら頑張ってたんですけど 結果を言うと、言葉とイメージを単語によってはある程度固定化させながら上演にもっていきました、ぐぬぬ 意味ではなくイメージっていうのは、ぎりぎりなラインだな、、、 完全に敗北、、て感じなのが、言い方を決めたところがあって(全部ではない!数か所!) 声をここに落とそう、はぎりOKな気もしたけど(それはもう誰に言ってるのかってことだし) ここはノッキングさせよう

          試行と上演の差

          意味と輪郭、平面と立体

          夏のムニの出演を経てから、 台詞と意味(セリフ通りの言葉の意味やセリフ通りの身体的な状態)は近づけすぎないほうが、色々豊かになる予感がしていて、 実践中なのだけど そうすると、とらえどころがないというか、 急に手応えを感じられなくなったりして不安になることもあるなと気づいた 余白が多い状態は、豊かになる可能性もあるけど、取りこぼし続けてしまうと余白なままになる可能性もある、こわ そこで、意味に戻ろうともするのだけど そうすると、急に私自身が台詞にべったり近づこうとして

          意味と輪郭、平面と立体

          点とつながり

          私は演劇を見るときはほぼ俳優を観に行ってる それは私が俳優だから、やはり演技をみたくなるからなのですが 私はかねてよりドラマよりも瞬間が大切だと思っていて、 それはサイコーな瞬間を見たいという欲求なんだけど だからわりと、すごいことが起きてる俳優自身の体とかを、見るのが、好きなのですが でも最近観劇してて、私の観る体力が落ちたのかもしれないけれど、 人の体を見ていれば十分に感じていたのに、それって点が続くことなので、観るために非常に集中力が要されて、たいへん、ということに

          点とつながり