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寄り添うとは

この夏は酷暑で、更年期にはかなりこたえた。
洗濯物干すだけで、汗が出るわ出るわで
2回ほど経口補水液のお世話に。。

それもあり、ほぼ引きこもりな8月は
読書に現実逃避していた。

その日暮らし 坂口恭平
苦海浄土 石牟礼道子
椿の海の記 石牟礼道子
石牟礼道子全詩集 石牟礼道子
伝えるちから 松浦弥太郎
断片的なものの社会学 岸政彦
アルテリ18号

読んだものに共通するのは
寄り添うこと
いろいろな暮らしがある

ということ。

私の不登校中の娘に抱えてる
テーマそのもので、
わたしがいまだに自分の軸で
娘の人生に介入してしまうことがあり
日々悩んでることである。

本棚をみるとその人がわかるそうだが、
本当にそうだなと改めて思う。

周りには寄り添おうと努めるのに、
肝心な我が娘や家族には
なかなかそれができずにいる。。

寄り添ってるつもりが、
支配的になってるかも…と気付くことも。

特に、学校行事に対して私は
それが顕著に出やすい。

昨年は運動会、今年は修学旅行。

支援学校だから、
どうしても行事は少ないし
コロナ禍も経たことで
気づけば
イベントは観たいという、
私の場合は親のエゴが強く出た。

結局、まだわたしは
イベントに不参加=参加できなかった と
捉えてることに気づいた。

そこに至るには、娘の主治医や
スクールカウンセラーさん、
訪問看護さんとの対話を通して、
娘はもちろん、私の想いにも
寄り添ってくれたから気づけた。

登校に対しては
娘に選択のハンドルを握らせてるのに
イベントに対しては
旅行楽しいかもよー とか言って
選択のハンドルを私が握ってしまっていた。

それは、自分自身が運動会や修学旅行と
いったイベントで楽しい思い出があるからだった。
でも、娘の人生は私のものではないのだから
自分の想いで誘導させてたことに気づき、
猛省した。
…と同時に、あぁ行かせたかったなぁという
まだ親のエゴからくる後悔もあった。

まだまだ、
私は寄り添う修行が足りない。

娘はイベントに参加しない選択をしただけで
ある。それを私が勝手に参加できないと否定的に捉えてしまった。

参加しない選択を、普通ではなく異常と
私の中で刷り込まれている。

でも、ただ反省だけしても、それは自分には寄り添えてないので、あぁそう思ってたんだなー、気づけてよかったなーとも思うようにした。

親子だからこそ、子のわからない、しないに寄り添う。
自分で、子のわからないという事実をわかって寄り添う。

すぐ答えを出そうとせずに
寄り添いながら対話する。

対話とは答えを出すものでなく
想いを伝える、共有すること。

8月の読書や
娘との日々で改めて
気づきを得たし、
またきっとわたしは
懲りずに同じ事をしてしまうだろうから
記録して言語化してみた。

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