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3年かけて1冊の本を音読した話

500ページに及ぶ小説を3年かけて読んだ体験から考えたこと。

自分一人で読むならそんなにゆっくりは読めない。それには特殊な事情があった。海外に住む日本語を勉強している友達のペースで物語を読む、ということを続けてきて、振り返った時にそのゆっくりとした読書体験がもたらしてくれた発見を記しておきたいと思う。

英語を普通に使えるようにするためには、日常の中に英語を読む聞く書く話すを強引に取り入れる必要があると感じて、いくつかの試みを続けている。日本語や日本文化に興味がある外国の言語交換パートナーをつくり、彼ら彼女らとそれぞれ週一くらいのペースで日本語と英語を練習がてら他愛もない話をする、という呑気なこともその試みのひとつだ。(他には、日常的に使っている全てのPCや携帯などのデバイスやソフトウェアの言語設定を英語にする、気に入った英語のポッドキャストを毎日数時間聞く、SNSに英語で投稿する、気になった記事を読む、など)

さすがに、毎週毎週雑談も続かないので、何かお互いの練習環境へのモチベーションを保つために、何かワークをやってみよう、という話になることが多く、また、それがうまくいくと長続きするという実感がある。

或る時、スイスのチューリッヒに暮らすブラジル人で、チューリッヒの公用語であるドイツ語と英語と、もちろんポルトガル語(あとフランス語も少し)が喋れるパートナーの一人が、ある日本語の小説の文庫本を知り合いからもらったので、それを読む練習がしたいので付き合ってもらえる?と相談があった。彼女は日本語を自分で勉強中で、挨拶程度の会話やカタカナひらがなは読めるが、日常的に会話を続けるにはまだまだという印象だった。スイス人と日本人のハーフのボーイフレンドがいるが、彼とはあまり日本語で会話をしないらしい(考えてみると日常的には彼らの国の言葉、Swiss-German=ほぼドイツ語、で話すのが当然だし、恋人同士で言語の勉強をするというのはあまり現実的ではないというのも分かる気がする)ので、日本語の本を読む、という彼女にとっては随分なチャレンジの伴走者に僕がちょうど良さそうだと思ってくれたのだろう。

彼女が日本語の物語を声に出して読み、その読みが間違っていれば正したり、言葉の意味について質問された時に解説したり、を僕が英語で話す。読む物語は日本語で、二人でディスカッションするときは英語で、という感じで1時間ほどのセッションが続く。僕にとっては英語で喋る機会が減るような気もしたが、逆にプレッシャーも減るので気持ち的には楽だと思ったし、何より、彼女がもらった本というのがこの状況を考えたときにどうも客観的に面白くなりそうだったので、ひとつ確認を入れたうえでOKした。

”tada----”(日本語でじゃじゃーん、みたいなやつ)といって彼女がラップトップのカメラに掲げて見せてくれたのは、なんと渡辺淳一の「夜の出帆」という分厚い文庫本だった。ページ数は500ページを超える。もちろん、彼女は渡辺淳一がどんな小説を書くかを知らない。ただ珍しく手にした日本語の小説を読んでみたいという純粋な興味があるだけのようだった。もちろん僕も渡辺淳一はひとつもちゃんと読んだことがなかった。ただ、読んだことがないと言っても、僕らの世代にとって渡辺淳一と言えば映画化もしたし流行語にもなった「失楽園」であり、恋愛小説というよりも不倫などを扱ってきわどい描写がふんだんにあるらしい、ということくらいは何となく想像できた。おそらくこの小説も少なからずそういうシーンが出てくるかもしれない、その時にどうするかを事前に確認しておく必要があった。

僕らはその当時で既に数年ほど週一で雑談をしていたので、気心は知れた間柄だったし、欧米の人は日本人と比べて恋愛にまつわる諸々の話題にも非常にオープンであることも経験的に知っていたから、僕は彼女に、渡辺淳一という作家が日本では人気がある作家であること、その理由はきわどい描写の恋愛小説だからだ、ということなどを話した。彼女は「Okay, that sounds very interesting! I don't mind it at all. If you are uncomfortable, we can skip the part.」と目をキラキラさせてまったく物怖じしない感じで、逆になぜか心配されたくらいだったので、それなら、まあやってみようじゃないか、という感じで始めることにしたのだった。

それが3年前のこと。

彼女は事前に数ページを下読みし、辞書で読み方や意味を調べてセッションに臨むので、実際には物事は驚くほどスムーズに進んだ。もちろん、読むスピードはゆっくりしたものだったし、特に最初のうちは言葉の解説や背景など逐一説明が必要だったから、1時間で1,2ページ読めるかどうか、というペースだった。彼女のつたない日本語が読む渡辺淳一の紡ぐ文章を、僕は聞きながら、同時に文字を目で追いながら、読む。考えてみれば、これは僕にとっては初めての読書体験だった。確かに小学校から高校までの学校の授業の中で、クラスの誰かが音読するものを聞き読みする、という経験がなかったわけではないが、今回はまったく別の感覚だった。彼女が外国人だから、という訳でもなかった。そのゆっくりとしたペースの中に、普段の自分の読書(自分のペースでの黙読)では得られない特別な何かがあることがぼんやりと、心地いい感触と共に僕の意識の中にあった。

季節が何度も変わりながら、僕らはその小説を読み進めた。途中から、主人公の聖子という女性以外の人物のセリフの部分を、僕が読むというルールも彼女のリクエストで加わった。聖子の同棲相手や、不倫相手のセリフをはじめ、玲子という同僚の女性のパートも僕が読むことになったわけで、それは大変可笑しな体験だった。

1週間に一度、というペースのゆっくりさ加減もまた面白い気がした。小説は、それが面白ければ面白いほど、一気に読んでしまう癖が僕にはある。ちなみに1Q84を連休中の数日で読んでしまったりする。しかし、人が読むペースに合わせるということは、まったく別の体験であり、多くの物語が、途中で時間的な空白を挟む(ひとつのシーンが終わって、翌日だったり、数日後の話になったりする)わけで、不思議と、小説の中の物語が同時進行で進んでいる、という感覚になる。僕らが週一のセッションをこなす裏で、本の中の登場人物が並行して時間を過ごしているという感覚が生まれたのである。

これは、この小説が長い物語だったことや、時間の移ろうペースがふんだんにあったことが大きいかもしれない。実際、他の友達と、例えば星新一のショートショートを読んだり、芥川龍之介や江戸川乱歩の短編を呼んだ時にはこの感覚は生まれなかったから、小説の性格にもよるのだと思った。もしくは、渡辺淳一のストーリーテラーとしての上手さなのか。最近、小説の終わりが見えてきて、僕らは「渡辺淳一がいかに過小評価されているか」を語るべきだという結論に達した(これはこんどpodcastで話そうか、という話まで出てきている)が、これは興味深いテーマである。僕らは、この小説を読み終わったら、別の作家の別の小説を読むことにした。その時にどういう感覚が芽生えるかが楽しみだ。

また、物語を読んでは都度その内容について感想を話し合ったり、印象を比較したりという体験も面白かった。いわゆる「読書会」てきなものに僕は参加したことが無いが、このような感じなのかなとも思った。

始めた当初は、1時間のセッションで1ページか2ページぐらいしか進まなかったのが、今では多い日で8ページも読めるようになっているし、会話の中にも日本語が混じるようになってきた。彼女の日本語の進歩も3年経ってみるとすごく上達したように思う。残すはあと10ページ余りとあとがきの数ページらしい。3年間で1冊の読書体験。実に感慨深いものがある。

因みに、この小説の中には僕が心配するほどきわどい描写はなかった、いいところで事前/事後の間に空白が挿入されていた。ホッとしたような、ちょっと期待外れだったような。


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