見出し画像

Fragments, 20230106

仕事が始まればなかなかテーマに沿って時間を取って向き合って書くことが難しい状況になっており,それはそれで充実しているのだが,なんとなく考えてみたい事柄は突然目の前に現れるわけで,断片的な考察や思い浮かんだことを記していく方法で試してみることにした.まあ,日記のようなメモのような,でも誰かに見られてもいいような,同じことを考えている人がいたら届けばいいなと思いつつ.

ーー

アテネに暮らす友達のインスタのポストに,ある男の写真が載っている古い日本の雑誌の記事があった.それはオーバーサイズのスーツを着てイカれた形相のデビッド・バーンの姿だった.トーキング・ヘッズの伝説のライブ映画「STOP MAKING SENSE(1985年)」公開時の何かの雑誌の記事だ.その写真や見出しのレイアウトは見覚えがあった.当時読んでいた雑誌で目にしたのかもしれない.その友達(まだ彼女は20代半ばだ)がどこからそんな古い日本の雑誌記事を入手したのか知らないが,1985年当時まだ高校に入学したばかりの僕にはトーキング・ヘッズの世界観はピンと来なかった.当然,ファンの間では「史上最高のライブ映画」と謳われるその「STOP MAKING SENSE」も観ていない.ただ,バーンのあのオーバーサイズのスーツはどうやっても当時の若者には刷り込まれている.そんなわけで,アテネ経由で1980年代に一瞬タイムスリップしてしまった僕は,気を取り戻して,彼女に尋ねた「映画は見た?」「いや,ただバーンが好きだから(記事を見て写真を撮っちゃった)」ということらしい.ふむ.そういえば「American Utopia」もまだ見てなかった,確か賞も取ってたはず.Amazon のカタログに載ってたな.そんな風に点と点が繋がって,正月休みで時間もあったので観たのだった.

なるほど,バーンを理解するまでに随分時を隔ててしまっていたのだ,という焦りに似た感情が湧き起こる.いや,このタイミングだからグッと来たのか.そして楽曲はトーキング・ヘッズ時代のものも多く,つまり全く色褪せている感じがしなかった.そうなると,当然のことながら「STOP MAKING SENSE」も観たくなる.運がいいことに(!)こちらも視聴できたのだが,1985年の作品ということで映像や音響的には時代の隔たりを感じる部分があるものの,歌われている内容はびっくりするほど今にフィットしているではないか.なんだろう,この感覚は.今更ながらデビッド・バーンという人間のその才能の一端を理解できたのだった.

調べてみると彼はアート・スクール出身だった.ミュージシャンである前に,世界との向き合い方がアーティストとしてのそれなのだろうと思う.いや,アート・スクール出身だから,アートを学んだから,というのではないな.彼のような人だったからアート・スクールに行ったのだ,がおそらく正しいのではないか.

一流雑誌のインタビュー記事っていうのはやはり素晴らしいなと思ったのは,バーンの飄々とした受け答えの中に世界を見つめる優しくも鋭く,皮肉めいた可笑しみをたたえたその眼差しを捉えていたから.

ひとことで言うと,この歳になるまで,幾度となくその存在を知りつつも彼のような才能に出会えなかったのは「食わず嫌い」だったのだということだが,こういうことがあると,自分がどれだけ普段の生活の中で出会っていること,出会えていないことの中に見過ごしてしまっている素晴らしい物事が存在しているのか,そしてそれを拾えていないことに敗北感に似た感情を持ってしまう.自分でもわかっている,本当に知りたいことは自分の遠ざけているものの中にあるのかもしれないと.謙虚に生きなくては,と思う.

ところで,アテネの友達にお礼を言うと,なぜお礼を言われているのか訳が分からなさそうだった.海外あるある,である.今度,その記事の出所を聞いてみよう.

ーー

ワールドカップのハイライトとかダイジェストを年末にかけていくつか見た.こんなにPKが多いトーナメントはあった?とか,Abema TVが既存メディアに与えたインプレッションについてとか,サッカーのゲームそのもの以外にも話題の多い大会だった.中でも,カタールという国が国際的なスポーツイベントのホストになったことに対して懐疑的な論調が特に海外のニュースではよく報道されていた.事実,様々な問題が起こったわけだが,国政関係とか,それの背景にある宗教観の差や,政治的な勢力との関係とか,FIFAのような大きな組織にまつわるスキャンダルや,そういう類のややセンシティブな問題は日本ではあまり報道されないし,報道されてもニュース番組で触れられる程度で,バラエティなどで深掘りされるような機会はまず失われている.

この辺の異常に政治に対して国民の一般的な話題にならない社会の構造は,海外と比べるとすごく不自然だと感じるようになった.最初に書いたデビッド・バーンの映画では,バーンが選挙に行くように皮肉混じりで観客に話す場面も収録されている.監督がスパイク・リーだというのも考慮しても,これは普通にアメリカという国での普通の感覚だろう.

ワールドカップでも,国際的な視野で見てみると,アメリカとイランの試合とか,イングランドとウェールズの試合とか,かなりピッチの外でも注目される組み合わせがあった.また,秋に行われたブラジルの大統領選で,右寄りだった前大統領をネイマールが支持していたり,彼のようなスターやミュージシャンが自らの政治的なスタンスを表明することは普通のようだ.日本では,どこかアンタッチャブルな空気がある.そんなことを口にすると,所属事務所やスポンサーまで含めた大変なことになるのだろう.逆にいえば,海外ではそれを前提にして物事が回るようになっているのだろう.

潔癖すぎるところがあるんだな,おそらく,日本社会は.潔癖というか,二重構造というか,見えない部分で個人と組織の取引が行われているというか.和を尊ぶ,のが美点でもあるし,和を尊ぶためには,個がある意味で犠牲にされるということなのだろう.どちらがいいというものでもあるまい,ただ,そういう社会になっている,ということだし,変わるには相当な時間が必要なのかもしれない.

ーー

ワールドカップでは,もう一つ,VAR(ヴィデオ・アシスタント・レフェリー)の役割が話題になった.このアシスタント,という概念がこの手の分野ではよく聞かれるし,調べると法を含めてこの単語がキーワードのようだ.あくまでも主体は人間にある,という意味である.車の自動運転も同様で,現在日本で市販されている自動運転システムは,あくまでも主体が人間である,というレベルを超えないようになっている.法が追いつかないのだ.

「三笘の1ミリ」は,実際に1ミリかどうかは別にして(誰も気にしていない?僕には大袈裟に聞こえるんだけど)あれだけ画像が揃っていれば,コンピューター上でインかアウトかを判断するのはそれほど難しいことではない.で,そうなると,ファクト(真実)が完全に客観的なものになるわけで,実は,ここにはちょっと怖いなと思う不安がチラッを顔をのぞかせる.これまでは,ファクトであろう,という判断を審判に委ねていたから,そこにはミスジャッジや疑惑やめんどくさい問題が常に内包されている状態だった.だが,ここまでファクトが客観視されたら,それはもう「アシスタント」ではなく,最後の審判であり,それは,GODだよね,と思うのだ.

エクセルに計算させて,自ら検算する,なんて人は今時いないと思うが(信じられないかもしれないが,20年前は,みんなエクセルで計算した後,電卓をはじいていたのですよ!さらに言うと,メールを送った後で,今メールを送りましたと電話していたのですよ!)

ーー

これと関連して,AIがクリエイティブの分野に及ぼす影響が昨年から今年にかけて大きく社会を騒がせている.僕も,DALLEやmidjourneyを触ってみたりして思ったのは,とうとうここまで来たんかー,というややゾッとする気持ちだった.そして暮れにはChat GPTが登場,もう作文の宿題は出せないなーなどと先生たちがぼやいていたりするのが話題になっている.

これらについては,僕なりにこれが何を意味するのかを随分と考えてきた.今の時点で言えるのは,僕らはこれまで「結果」を相手にしてきたんだな,ということと,これからは「プロセス」を楽しめるかどうかが大事になってくるんだな,ということ.モノに価値を見出すのではなく,時間と空間の流れの中に価値を見出す必要があるな,ということ.過程の中に楽しみを見出せるのは強いと思う.

ーー

それにしても,ますます教育現場は大変になりそうだ.これからはAIで作られたものかどうかをチェックする必要が出てきそうだし.でも,もういい加減,学校というシステムが旧態然としていては立ち行かなくなることは目に見えている.選択肢はいくつかある.
選択肢1.AIやテクノロジーは邪道だ.ちゃんと自分の手で描き,頭で考えたまえ.
選択肢2.AIやテクノロジーを使うことを覚えよう.さあ,まずはAIとは何か,を一緒に学ぼう.AIの使い方を一緒に学ぼう.
選択肢3.AIやテクノロジーを使っても構わない.その代わり,もっと深いところや他の分野についても学んでいこう.

それぞれに一長一短があるだろうし,いずれもバランスだとは思うが,もう一歩踏み込んで,学びをデザインすれば,日本の教育も少し変わってくるかもしれないというほのかな期待がある.学生が自らのゴールを設定し,そのために必要だと思うことを自分で学ぶ,この基本的なポイントを押さえておかないと,上の選択肢のいずれを採用したとしても「やらされ勉強」になってしまう.なんのために高い学費を払って勉強しにきているんですか,勉強とはなんのためにするのですか,なぜそれが今君に必要なんですか,と.よく「算数ができて何の役に立つというのか」という疑問を耳にすることがあるが,この疑問は,算数がなんの役に立つか知らないまま勉強させられている可哀想な自分という事実を曝け出す究極の逆ギレ質問なのではないか.

これも,プロセスを楽しめるか,その時間を楽しめるか,にかかっているような気がする.やらされ勉強,にならないために,しないために,お互いが改善できることはまだたくさんありそうで,教育現場で日々過ごす身としてはそれがこれからしばらくの仕事になるかな.

ーー

建築については,建築業界ももはやSDGsや環境問題から目を逸らせなくなってきているのは明らかだし,それも追い風になってDX化や一層のハイテクノロジー化が進んでいるように思う.ただ,小さいアトリエ系の設計事務所はまだまだ...

昨年出版された,Mario Cucinella のThe Future Is A Journey To The Past と,MILKがまとめた Meanwhile City を読んでいる.古い時代に,どうやって環境を紐解いて快適なまた,目的に適った建築を作り出していたのかという事例リサーチと,Meanwhile(その間,束の間)つまり一時的な小規模な介入で都市や建築をより人間社会にとって豊かな場所にするための事例と考え方についての本.

ここ数年,使い手として都市や建築をアダプトしていくとか,小さくアタッチしていくとか,そういうことに興味がある.

昨年,広島の公共建築を街に開くイベント「ひろしまたてものがたりフェスタ」に,2箇所ほど現代建築をガイドするオファーをいただいた.今年も,何か一緒にやれそうな感じで,こういう機会はありがたいなと思う.まだまだ建築の楽しさや可能性や遊び方は多くの人に伝わっていないだろうし,これを機会に何か試せたらと思っているところだ.

最初に触れた,デヴィッド・バーンが建築(音楽とその環境)について語っている動画と,ごく最近のインタビュー音声.

そして極め付けは,Reasons to be cheerful というバーンが立ち上げたサイト.その名の通り,げんきになる理由,ポジティブになるニュースをキュレーションしたサイト.こういうことができるのがすごいなぁ.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?