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PENTAX 17と行く甲信旅行 (2) 甲府城

 ホテルで寝て起きて二日目。

 甲府の宿はちょっと駅から南で、そして甲府の街は駅前からまっすぐ南に伸びる大通り沿いに県や市の施設がずらっと並んでいる。これは甲府市役所。
 山梨県って、行政も経済もなにもかも甲府一箇所に集まってるというか、そうなるしかないような地形してるな。あまり他にそんな県はない気がする。

 ピント間違えちゃってボケちゃった。なんか県庁と県会議事堂のところは、道沿いが小さな商業ビルの並びになっている。奥のでかいのが県庁。

甲府城

 甲府城は駅チカ物件。武田信玄が滅んでから豊臣氏の領地になり、甲斐当地の中心として羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政といった面々が順次作っていったそう。
 これは確か北西側から入ってすぐ。

 もともと甲斐一条氏の居館があった丘で、一条小山といわれていた。結構小高くなっている。

 これは天守台。

 航空写真とかで上から見ると結構歪んだ形の天守台だ。
 天守台はあるけど天守が建たなかった城はよくあるけど、甲府城も天守があったという確たる記録がない。しかし、最初から無かったという証拠もまたない。

 この旅は、歴史にたいそう詳しい友人が諸国の城を巡るぞ、ということで開催されているのだが、甲府城の天守と俊英・浅野弾正についてのおもしろい話を色々聞かせてもらった。
 俊英・浅野は秀吉の姻戚という立場から豊臣政権の五奉行筆頭、そして関が原ではしっかり子といっしょに東軍についてその後も立場を維持した人物で、色々立派な人だったという逸話がある。朝鮮出兵の頃の秀吉を諌めたとか、家康と囲碁友達だったとか。
 けれど、最近の研究では結構実態がめくれてきてる人であるそうで。

 復元されている鉄門を下から。あえて当時のちょうな削りでやった梁。

 天守台から北東方面には、かつて城に使う石切場だったところがあるらしい。どう考えても甲府城を攻める橋頭堡になるような高台なので、放置してたとは思えないな。
 今は県立科学館と遊園地がある。えらい不便なところに作るなあ……。

 本丸南側の石垣を、鉄門の入口前から撮ったもの。鉄門は中にも入れて、ちょっとしたパネル展示がある。

 これは天守台に上がる階段。天守があったら玄関みたいになってるとこ。

 天守台から、右手に見えてる塔は謝恩碑で、明治時代に水害で山林が荒廃した山梨県に、御料地が下賜されたことを記念している。甲府城をできるだけ再現するように整備しようと80年代に工事されたときも、これは残さないといけないとそのままにされた、重要なものらしい。

 天守台の中も虎口みたいに折れてる。そういえば他の天守も、建物あるとわかりづらいけどこうなってるかもしれない。手前の折れた先は行き止まりで、武者隠し的に使うんだろうか。

 なぜか天守台からの眺めをPENTAX 17では撮ってなかった。なんで?

 天守を下りて、天守台を東からぐるっと回って鉄門に。
 どうもこの城の本丸、犬走りみたいにぐるっと細い通路が本丸東側・南側にかけて通ってる。ちょっと変わった作りしてる? 

 鉄門正面から。

 鉄門からちょっと西の一段下がったところに武徳殿が建っていて、これは山梨県警の道場になっていた。半分板張り剣道場、半分畳敷き柔道場。
 建物自体は多分昭和のものかな。

 もうひとつ南に降りると、東西に細長い日本庭園が整備されている。
 これは80年代の整備で作られたものかな。

 甲府城は南側が大手で、こっちからだと天守が真正面に見える。

 似たようなアングルだけど、これは堀の上の遊亀橋から。堀には例によってアカミミガメがいたけど、それはあまりよいことではない。

 大手から右手に進んで、東側の数寄屋郭から上がってきて、北東側の稲荷櫓へ。
 これも復元だけれど、明治までは残っていたのが写真に撮られていたそう。

 稲荷曲輪北側の塀。ここの塀は支えを立ててた。他のところにはないところもあったけれど。

 舞鶴城公園を出て駅北側へ。バスの時間を見ると15分ほど先。
 駅前になにやら味わい深い建物があり、かつての睦沢村に明治8年に立てられた学校の校舎であるそう。「藤村記念館」っていうから島崎藤村かと思っちゃったけど、それは5代山形県令藤村紫朗からとったもの。
 その藤村紫朗はこういう擬洋風建築を奨励してたそうで、アーネスト・サトウが甲府に来たらこんなんが立ち並んでいて驚いたそうな。

 そして水準器もないカメラできちっと建物を撮るのは難しいのであった。

 記事ふたつで写真38枚まで来たけど、まだフィルム半分ちょっとしか行ってないぞ。

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