29歳、父さんが働く姿を見たことがない。 「名前のついてる仕事」に憧れたのは、それが理由だったのかもしれない。

お父さんってなんの仕事をしているの?

初めて尋ねたのはいつだったか。63歳の父に聞くと、「幼稚園くらいじゃないか?」と返ってきた。ぼーっとテレビを見ながら、適当に。
もっと早い気もするし、遅い気もする。29歳になった今、そんなのはすり切れたビデオテープみたいな飛び飛びの記憶で、いくら再生したってはっきりした答えは得られない。

世界がまだ輪郭を持っていなかった幼いわたしに、父も母も「メーカーの営業職だよ」とは言わなかったと思う。

覚えているのは、「コンピューターを売る仕事だよ」と言われたことだ。うちにパソコンはまだなかったと思うけど、ブラウン管テレビのような箱型の大きなパソコンを売っているのは、当時のわたしにとっては、電気屋さんだった。

アタマの中で結ばれた像の中で父は、バーコードリーダーを片手に電気屋さんのレジに立ち、なぜか頭に三角巾を巻いてエプロンをつけ、文字通りお客さんにパソコンを売っていた。今思うとそれは「電気屋さんのレジの人」としても正しいイメージじゃない気がするけど、何歳だったかも忘れてしまったあの日の自分の納得感だけは覚えている。そっか、そうなんだ、「コンピューターを売る人」が、お父さんの仕事なんだな。

大変そうだなあ。

それは、私たちの毎日が、金銭的な部分では「お父さんの仕事」によって保たれていることに気づくのと同時だったと思うのだ。

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父の仕事が、どうやら電気屋さんではないと気づいたのはいつだったか。

物心ついた時からお父さんは、毎朝、同じ服を着て家を出て行く生きものだった。ときどきお小遣いに100円玉をくれた、お兄ちゃんだけ200円の時があったのは今でも解せない。

土曜日と日曜日は、家にいた。
お父さんはわたしのことが大好きで、歴代の彼氏たちとは比べものにならないほど、まあ大好きで、当時のわたしにとっての日曜日といえば、朝ごはんから父と母、兄と妹とわたしでそろってアジの開きなんかを大根おろしで食べて、父の膝に乗って一緒に遊んだり、鼻と鼻とをくっつけてぐりぐりしたりする日のことだった。テレビでJリーグの試合がある日は遊んでくれないのが不満で、わたしはテレビの前に立ちはだかって観戦の邪魔をした。(お願いだからどいて!って懇願する父の声。どけよ!と怒る兄の声)

わたしたち兄妹を育ててくれたのは、はっきり言って母のワンオペ育児だ。

父が出勤した後、母は幼稚園に行く兄を自転車の後ろに座らせ、わたしを前カゴに乗せ、妹を背中におぶって出かけた。3食のご飯をつくり、5人分の服を畳んだ。町田のアパートで、ベランダに干した布団をばんばん叩く音を聞きながらわたしたちは育った。

その間、足にまとわりついて甘えても、寝るまえに本を読んでとせがんでも、いつだって優しい母さんでいてくれたことは、当たり前のことじゃない。

過ごした時間の分、母と強く結びついているわたしたちに、いつだったか父は「直接エサをやる役割の方がなつかれるもんだ」と吐き捨てた。そりゃないぜお父さん。お察しのとおり、ジェンダー的観点で、うちの父はけっこうアウトな人であったことは否めない。
でも、お父さんの気持ちも今ならわかるのだ。だって、望んで長時間労働したわけじゃないものね。

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年とともにわたしは少しずつ理解していった。

お父さんが毎朝行くのは会社で、会社は大人がシゴトをするところ、お父さんが売っているのは学校にあるあの箱型のパソコンじゃなくてもっと大きなコンピューターで、それは「システム」と呼ぶもので、買ってくれるのは個人じゃなくてこれまた会社、お父さんがやっていることは「エイギョウ」と呼ぶらしい。エイギョウは「営業」と書くらしい。

成長するごとにそんなことをいっこずつ理解していったけど、わたしがお父さんの仕事を本当に「わかった」ことは、実はいまだに一度も、ない。

だって、わたしは他の多くのサラリーマンの娘たちと同じように、生まれてこの方29年、父が働いているところをこの目で見たことがないから。
わたしが知っているのは、朝早くの父さん、夜遅くの父さん、そして休みの日の父さんだから。

「大きくなったら何になりたい?」
小学校の作文で、寄せ書きの冊子で、聞かれることが増えていった。「大工さん」、「ケーキ屋さん」、「少女漫画家」、「お医者さん」…わたしは頭の中で像を結ぶ仕事で、その時やってみたいと思えたものを書き込んでいった。
全ての人には生まれつき向いていることがあって、それを見つけて生きていければ幸せな人生だと大人は言った。

「営業職」とも、「電気屋さんのレジの人」とも終ぞ書いたことはない。
お父さんが働く姿を1度も見たことがないのに、朝早く家を出て夜遅く帰ってくるお父さんの仕事を、したくないとさえ思っていた。

いつの間にかわたしは、なんでもいいから「名前のついている仕事」に就きたいと思うようになっていた。
営業とかレジの人とかじゃなくて、「家」とか「師」とか「者」で終わるような名前の仕事。英語だったらerとかistで終わる名前。
夢を叶えるとは、その仕事の名前と自分の名前を並べ連ねることだった。芸人の誰々、作家の誰々…    椎名林檎が歌手でもミュージシャンでもなく「音楽家・椎名林檎」と名乗るのをNHKの番組で見た時、高校生だったわたしは「おお」と声を漏らした。なるほど、そう来たか。

女優とか国語の先生とか空手家とか料理人とか学者とかお巡りさんとか、美少女戦士とか、アンパンマンとか、テレビや街の中で見たことがあるもの以外になるのを恐れていた。「会社」の中にいる無数の人々は、父と同じように、それ以外の何かのようだった。

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そんな恐怖だけを肥大化させて大きくなったわたしは大学4年生になり、慣れないパンプスの足をがくがくさせながら就活という入り口に立った。

そして、どうやら古くから名前がついている専門職を手に入れ、こうしてモノを書いて、お金をもらっている。同時に会社にも所属する身となった。

社会に出て5年。
信じられないほどたくさんの物事が、わたしの前を通り過ぎていった。

世の中にはたくさんの名前のない仕事があり、それらは複雑にはたらきかけあって誰かを幸せにしたり、何かを便利にしたりしているのを知った。

新しい時代が来て、世の中には次々新しい名前の仕事が生まれていた。
YOUTUBERやインフルエンサーという名前が小学生の憧れになった。
それらに未来を託すように、昔からあったはずのいくつかの名前のある仕事は、今後なくなっていくのだと言われ始めている。

せっかく手に入れた私の「名前のついてる仕事」も、なくなるリストに乗っているとの声さえ聞こえる。そんなことならその時その時、どんなポジションでも空いた枠に入れる名無しのスライムでいたかった。

ざらつく私に、いつかの父の言葉がよみがえる。
「僕はね、後悔はあんまりしてないんだ。その時その時一生懸命やったからね」
それはコンピューターを売ったことか、毎日会社に行ったことか、売り上げを伸ばしたことか、後輩を育てたことか、悔しさに耐えたことか、遅くまで飲み会に付き合ったことか、子どもを3人大学に行かせたことか、その全てか。

君もそうすればいいんだよ、と父は言う。

「その時その時一生懸命やれば、その先になんかはあるんだからね」

わたしは社会人5年目の29歳。今、63歳の父に尋ねるならこんな聞き方をする。

お父さんは、どんな仕事をしてきたの?

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