1年前の明日、noteを始めました。
Twitterで繋がっている両手を使えば数えられるほどの大学の後輩たちが、こぞって卒業論文がなんだ、口頭試問がなんだと言っていたので、もう《そんな時期》であることは薄々勘づいてはいましたが、本当に1年が経ってしまったようです。
あっという間、と言いたいところですが、こうやって文章を読み返してみると、1年前のことはもう完全に《過去のこと》になっていることを実感します。
就職という未知のものに対する漠然とした不安と期待が入り交じったあの曖昧な時期。モラトリアム期間のモラトリアムの極みのような1ヶ月。
予定を詰め込んで「学」に貪欲だった大学生時代は《人生の夏休み》と称されるのが大嫌いで、そんなことを言ってくる大人が大嫌いだったのですが、そんな私でも唯一心の底から休んだと感じている1ヶ月間。あの1ヶ月がなければ私はきっと大学生を昇華できなかっただろうし、その1ヶ月が毎日noteという場所に記されているのが、なんとも言えない少し恥ずかしいような気持ちになります。
最近「人を知る」ということへの興味がとても薄れてきていて、よくないな〜と思います。同時に、自分のことをわかってほしいとも思わなくなってきた。他者から自分がどう思われるか、私が他者をどう思うかが、すごくめんどくさくなってきてしまっています。そういう意味では、大学の友人たちとの距離感はすごくおもしろくて、互いに何も分かり合おうとはしないのに、互いに互いの中に存在している感覚というか、思考だだ漏れの文章を読んでも、賛成とか反対とかじゃなくて、ただそこに「在る」というもの同士な、そんな感じ。
難しい。
仕事の提案とか、意見とかそういう文脈では賛成ってすごく嬉しい、肯定された気分になって好きなんですけど、プライベートな文脈において自分の思考に対して「わかる」と言ってほしいわけではないんですよね。きっと。たぶん。
わかるなんてきっと存在しなくて、でも近い、とか、似たようなことを思ったことがある、とか、そういうのが積もり積もって居心地の良さは形成されるのかもしれないけれど。敢えてそういうことを言わずとも暗黙の了解で共存できる感じです。
わかる、が存在するということは、わからないも存在してしまうということで、わかるを明らかにしないことでわからないも明らかにしないような、そんな、守られ方をされている気がします。どんな自分でも、どんな生き方でも存在を許されるのが大学生だったような気もするし、それは卒業した今も、当時の関係性のままの人たちに囲まれることによって、簡単に取り戻すことの出来る環境のようにも思います。