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アロマンティック・アセクシュアルだと思いたかった私への処方箋

私は20歳のシス女性。そしてアロマンティックでアセクシュアルだ。

私が「アロマンティック・アセクシュアル」という言葉を知ったのは高校三年生の頃。Twitterで「Aセク」という単語を見かけてから、芋づる式にアロマンティックという言葉を知り、それらの意味を調べた私は、「私はこれかもしれない」と漠然と感じた。

 それまで誰かのことを、漫画やドラマで見るような「好き」になったことはなかったし、性行為をしたいと思ったこともなかった。クラスで友人が「彼氏が欲しい」と騒ぐのを見て、その時はそうだね、と答えるけれど、ひとりになってから「彼氏というラベルがその関係の何を変えるのだろう」と考えていた。

けれど、あの時に言葉を知っただけの私は「私はアロマンティック・アセクシュアルだ」と言い切ることができなかった。あの時は本気でこう考えていたのだ。

「だってここ女子校だし」
「女の子が恋愛対象じゃないだけかも」
「セックスを経験したらアセクシュアルじゃなかったってわかるかも」
「自分の体型や容姿に自信がないからでしょ」

そこから1年と少し。大学に進学してからも、誰に対しても恋愛感情や性的欲求を感じることは無かった。そして幸いにも(?)それまで私自身のセクシュアリティに悩まされる出来事は起こらなかった。私の「アロマンティック・アセクシュアル疑惑」は解決されないままで済んでいた。

 しかし、向き合わなければならない時が来た。さすがに20歳にもなると、今まで近況を報告して昔話をすれば盛り上がっていた高校の同級生たちの話題が急に色気を帯び始めるのだ。やれセフレだ、彼氏に捨てられた、やるだけやって・・・うんたらかんたら。そして散々惚気たり悪口を言ったりしてスッキリしたみんなは揃いも揃ってこういうのだ。

「あなたはどうなの?」


私に話すターンを与えることで平等を保っているかのような悪気ないその質問に私は返す言葉を持たなかった。「誰かと付き合いたいとは思わない」といえば「負け惜しみだ」「高望みしすぎ」と言われ、「セックスを魅力的に感じない」といえば「経験すればわかるよ」と言われる。いくら本心で言っていたとしても、何度もそう言われればみんなが言う通りなのではないかと自分を信じられなくなってしまう。そんなことならそういう友達とは付き合わないようにしようかな、そこまで考えた私は、その前に調べてみようと立ち上がったのである。「アロマンティック・アセクシュアル」という言葉について。

そこで見つけたのが、見えない性的指向 アセクシュアルのすべて―誰にも性的魅力を感じない私たちについて であった。

 
この本が私に教えてくれたものはとても大きい。それまでの言葉を知っていただけの私は「アロマンティック・アセクシュアル」であることを誰かに証明して認めてもらわなければならないと感じていた。なぜなら自分に恋愛感情や性的欲求があることが当たり前でいつかそれに目覚める可能性があるとどこかで思っていて、そのラベルを自らに貼ることは、そうでないことを、あるいは一生目覚めることはないと宣言することだと思っていたからだ。この本は、私の友人やこの世界の多くの人が違和感なく当たり前のように持っている「恋愛感情や性的欲求は普遍的なものである」という規範を私自身が内在化していたことや私が持っていたセクシュアリティに対する大きな誤解に気づかせてくれた。

 
「アロマンティック・アセクシュアル」というラベルは、過去から現在の経験とこうだろうと自分が思える程度までの未来を説明するものだ。わざわざ「やってみる」必要などない。そして誰かに私のセクシュアリティを証明する必要はないし、それは宣言でもない。合わないと思えば変えたっていいのだ。私は今自分が抱く感情について違和感を抱く必要はない。友達との関係については今後考えなければならないかもしれないけれど。

 
違和感を消化するためのたくさんの言葉を教えてくれたこの本は、私にとっての処方箋だ。ずっとみんなのあたりまえが腑に落ちなかった私には言葉が必要だった。これから私は「アロマンティック・アセクシュアルである」ということとどう向き合っていくのかずっと考えていくのだろうけれど、違和感をただ受け入れて飲み込んでしまうだけよりずっといい。同じように悩む人達が、こういうラベルがあるということを早く知ることが出来たらいいと願っている。

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