苔むす

歳を取るとどうにも、体だけでなく心まで石のように固くなりがちじゃ。恋、というのは心にも体にも良いらしいが、そんなのは婆さんで充分じゃ。なあ。婆さん。

本当はな、婆さん、なんて思っておらんのだよ。君はずっと「○○さん」だった。家族が増え、立場上、そういう....部長や課長みたいな役職の呼び方をしてしまっていた。すまなかった。

わしが....いや、僕が、そちらへ行ったら、また二人で、そうですね、三浦半島なんてどうですか。君は横須賀に行ってみたいと言っていたじゃないですか。もう当時のような風情は薄くなってはおりますが、少しばかりネオンのうるさいお店に入って、ミルクセーキなんかいただきましょうか。海軍カレーはどうですか。それから、漁港にも行きましょう。

僕は彼女の遺影の前でそんなことを考えていた。
「○○さん」
「ウフフ」

遺影は微かに笑ったのだ。

君を初めて見たのは日差しの強い夏の日じゃったかな。他の逞しく焼けた女性と違って真っ白で、そこだけぼんやりと淡く光って見えたので、僕は自分の目がおかしくなったのかと思ったのだよ。眼医者に行き、精神科で笑われたものだ。「きみ、それは恋というものだよ、今まで経験がないのかい」「こんなことは初めてなのです」「目も精神もおかしくはない、恋は病とも言うし患うとも言うけどね、きみのような感性と正直さがあれば問題ない。怖がらず幸福になりなさい。」「幸福?」「その、淡い光を発する彼女を見ると幸福ではないかね?」「あ....」

初恋だった。医者に症状を話すように正直に、手紙を書いた。そして彼女に渡し、読み終わるのを待っていると「まあ、ウフフ。困ってしまうわ、こんな嬉しいことは初めてなの」と、淡い光はほんのりと桜色に染まっていた。


彼女の淡い光は僕の心の植物を育てた。
女性に花を贈るというのはこういうことなのか、と思った。
僕は心に薔薇が咲いたことを告げるために花屋を巡った。冬の寒い夜だった。

次に会うときはどんな花を持って行けばいいだろうか。

どさり、と彼は倒れた。


「伴侶が先立つと続けて逝くって言うね」「そうなんだ、どうして?」「会いたいからじゃないかな....あ、それか、ちゃんと繋がっていたか」「ママが死んだらパパも死ぬの?」「なながいるからね、ななの半分はママだから」「!?」「いつか全部ななになるんだよ」「ななは少ししかななじゃないの」「そうだよ、まだ半分近くはママ、だからパパは死なないんじゃないかな」「???!!?!???!??」「あなた、ななが混乱してるわよ」「暇なとき思い出したらゆっくり考えてごらん」「う、うん」「さあなな、おじいちゃんの胸の上にお花を置いて」「はい」


孫が摘んできたタンポポを入れて、おじいちゃんのお話しはおしまい。


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(ゆうがたのくに第十二号掲載)


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