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「天才を殺す凡人」が神からの贈り物だった私のストーリー

神からの偶然の贈り物に感謝。

この一言だ。

正直に白状する。北野唯我さんには申し訳ないが、この本、全く読むつもりはなかった。

どっからどう見ても"凡人"である私が、普段から"天才を殺している"ことを自覚させられるような本だろ?ってタイトルから決めつけていたからである。

「読んだら、俺、すごく凹むだろうなぁ・・・」

そう思っていた。

きっかけは図書館

とある8月の土曜日の午後、息子を連れて図書館へ行った。夏休みの宿題である10冊以上の読書をこなすため、本を借りに来たのだ。

息子と妻が絵本を探している間、私は一般書のコーナーをぶらついていた。せっかくだったら何冊か自分のためにも借りておこうか、と。

図書館という場所は書店と異なり、独特の陳列がされている。天才を殺す凡人は、心理学系の本のコーナーに置かれていた。

あ、有名な"あの本"だ、と手に取った。

北野唯我さんの本はkindle unlimitedでいくつか読んでいた。聡明な文章を書く人だなという印象を持っていた。だから著者には興味・関心を持っていたのだ。

私はその本と対峙した。

強烈なメッセージを私に訴えかけるタイトル
そこに立つ、実は殺人者かもしれない中年の男(私)

「・・・。」「まぁ読んでみるか。」

3冊の絵本とともに、私はその本を貸し出しカウンターに置いた。

ストーリー仕立てがもたらすもの

"凡人"を自認していた私は、完全に主人公である青野になることができた。学歴も、スキルも、なに一つ「人一倍」のステータスを持てない人物。ドラゴンボールで言えばサイバイマンだ。

天才ベジータや、秀才ナッパのようにキャラが立っていたり、稀有な才能がある訳でもない。ただ水を撒けばうじゃうじゃと生えてくる、そんな存在。

私と同じように、青野も凡人であることに最初から気づいていた。凡人を受け入れている人間の行動は、手を取るようにわかる。

ベジータやナッパに勝とうだとか、蹴落としてやろうだとかそんな気持ちは全く湧かない。ただ天才や秀才が作る世界を盛り上げ、自分たちのご主人様にとっての敵(ドラゴンボールで言えば、悟空・ピッコロ・クリリンなど)と対峙し成果を上げる。そんなことが生きがいになっている。

どんなに新たな挑戦を続けても、いつも思うように行かない。戦う→負ける→挫ける→でも立ち上がる。そんなことの繰り返しだ。

ストーリー仕立ての本の中にも、さらにあるストーリーが描かれている。チャーリーブラウンとスヌーピーの対話だ。

『なんで、君は犬なんだい?』
中略
スヌーピーくん、なんて答えたと思う」
「……知らんワン、とか?」
「ちゃうわアホ。彼はこう答えた。『なぜ犬かだって?仕方ないだろ、人生は配られたカードで勝負するしかないのさ』ってな。こう答えたんや」

まさに私はサイバイマンとして、自分が持つ能力という名のカードをで勝負するしかないのだ。どうあがいたってベジータやナッパのようにはなれない。だけれども、そのカードが何かさえ知っていれば、ヤムチャを倒すことはできる訳だ。

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凡人にとってのエクスカリバーとは?

これもこの本に出てくる比喩(メタファー)だ。エクスカリバーと言えば、私にとってはファイナルファンタジー。最強の武器というイメージがある。

この本には次のようにエクスカリバーが登場する。

『便利な言葉』は、秀才の武器や。でもな、『自らの言葉』は、凡人の武器なんや。凡人こそが抜くことが許された、最強の剣、エクスカリバーなんや
僕は、考えたことがなかった。凡人だからこそ、持つことができる最強の武器……それが、『自分の言葉』。
ケンは続けた。
「ええか、他人の言葉を捨て、『自らの言葉』という最強の武器を持て。それこそが君の才能を開花させるんや。

『自分の言葉』

これこそが、まさに私がこの本から受け取った神からの贈り物、エクスカリバーだった。

思い返せば、私も多く「他人の言葉」で生きてきた。先輩や上司から教わった言葉、研修や書籍を通じて知り得たスキルや知識。でもそれって受け売りだから、他人の心には刺さらない。

他人に刺さるのは、まさに自分が経験したり、体験したり、そして自らの内面から捻り出させる拙いワードだったりするのだろう。

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今こそエクスカリバーを使うとき

私にも思い当たる経験がある。前職の会社に勤めていたとき、癌(がん)やその治療について社内向けにレクチャーをやってほしいと言われたことがあった。当時入社したての私は、がんについて詳しい訳ではなかったが、過去のMR(医薬品の営業担当者)としての経験も生かして、がん診療レジデントマニュアルで勉強の上、レクチャーに講師として臨んだ。

レクチャーの最後に質問があった。どのようにがんのステージを捉えれば良いのでしょうか?と。

私は考えた。考えていると、視界の先に壁に掛けてある絵画が目に入った。その絵画には、カラフルな太い線が何層にも描かれていた。

↓こんなイメージ

私はこの絵画から瞬時に着想を得た。くいっとその小さな絵画を取り外し、ステージ0とはこういった状態、ステージ1とはこういった状態、と説明を行った。

数年後、そのレクチャーを受けてくれた元同僚と、たまたまパートナー企業の担当者として仕事をする機会があった。その時に言われた一言がこれだった。

あの時の講義は、今でも覚えています。
あの時、たかっしさんから得た知識は、今でも役立っています。
ありがとうございました。

自分の言葉で語るとは、まさにこういうことだ。教科書に書かれたことを知ったかぶりして鼻高々と話すことではなく、その場、その時、そのメンバーと向き合って、自分の中から言葉を紡ぎ出すことなのだと。

このnoteでも、比喩で用いた固有名詞こそ、他人の言葉を使ったが、伝えたいこと、私の想いは、極力自分の言葉から捻り出したつもりだ。

他人の言葉を使うことは簡単だ。Book Reviewなどでも、キーワードを抜き出し、ここが刺さった!と書くだけなら比較的簡単に書ける。

だけど、本当にそれで良いのか?自分はそれで満足なのか?
この場、この時、この瞬間で、私の内面が感じたことに向き合うことの方が、本の要点を書き記すよりもよっぽどかけがえのないものだ。それは誰にも真似できない、表現することができないものだ。

今こそ「自分の言葉」という"エクスカリバー"を抜くとき。そんなことに気づかせてくれた読書体験だった。この偶然の出会いに心から感謝したい。

ありがとう神様

そして、北野唯我さん


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