世界観について考えたりする

 個人的に音楽だったり絵だったりの作品を見ていく上で、良いと思うかどうかの判断基準に、その作品がそれだけでそれだけの世界観を持っているかというのに重きをおいたりしています。
 音楽だったら、主題を表すのに適切な音の選び方、構成をしているかであったり、収録上の音質やミックスなど。
 絵だったら、どれだけのインパクトがあって、細部までどこまで描き込んで見ることができるのか、あるいは描き込まないことで得られる印象を作れるのか。画材の選択や出力形態も含めて考えたりします。
 一応は写真関係の大学を卒業しているので、衆目に晒される「作品」というものに対して、それがどれだけ意味を持って何故この形態を取っているのかを考える習慣がついていると思って頂ければ間違いでは無いと思います。
 僕個人として写真や文章をいわゆる「作品」として扱っていないのはそれが大きな理由で、一定のクオリティに達していないものは作品として成立していないと考えている為です。
 内容がどれだけ良くても、見せられるレベルでないければ作品として扱われないというのは一つの事実ですので、僕は自身の写真はあくまで素材として扱っています。文責として名前だけは載せますが。
 
 話が脱線したので戻しますが、それではそもそも「世界観」という言葉はどういう意味を持つかです。

 個人的には「世界観=世界設定の細密さ」だと思っています。
 どれだけ複雑な構造をもつ音楽も、どれだけ精密な描き込みがなされた絵でも、その手間の1つ1つが作品の表すべき世界の中でどのような役割を持つのかという事を考えなければならない、という事です。
 緻密に考えられた世界設定に基づいて作られた作品は、必ずしも複雑ではないことがあります。
 その世界を表すのに、この音1つあればこれが再現できる。この線1本があればよりニュアンスを伝えられる。
 その繰り返しが世界観の造り込みという作業だと僕は思っています。
 
 例を挙げるのならば、DUSTCELLさんの「DOMINATION」や大原ゆい子さん(作詞・曲は鈴木慶一さん)の「煌めく浜辺」などでしょうか。
 前者は(歌声も含めた)音の効果的な使い方と、適切な響き(空間)の設計で受け手に対して非常に強い刺激を与え、主題を効果的に伝えることが出来ています。
 後者は非常に大きなスケールをシンプルな単語の組み合わせと、音それぞれが内包するイメージを効果的に組み合わせる事で、組み合わせによる表現の掛け算をしています。
 絵で例を上げるなら、toi8さんの「空想東京百景」や氷川へきるさんの「ぱにぽに」とかでしょうか。
「空想東京百景」は非常に細かな街並みの描き込みに対して、人物はある種ラフに描き込みがなされていて、舞台であり主役でもある「街の空気」を表現しています。
「ぱにぽに」はものすごく自由な線で描かれています。
 この作品の場合、この自由な線であることが、なにが起きてもおかしくなく、常に自由なキャラクターたちが最も生き生きと感じられるように出来ています。
 いずれもとても素晴らしい作品です。
 例で上げた他にも、たくさん良い作品はありますが、いずれも共通しているのは、それだけで完結した世界をもっていることです。
 
 それでは、「世界」とはなんでしょうか。
 それは「奥行き」です。
 
 世界を形作るのは、主に「空間」と「時間」であり、つまりは世界は「3次元」であることです。
 音楽は[音の高低]つまり空間の中で経時的に変化する音の連なり・重なりです。
 低域・中域・高域が互いに影響しあって多層的に、経時的に変化を繰り返すことで、空間と時間を表現します。
 絵の中にも3次元的なパースが存在し、機械的に描かれる奥行きは人の目によって都合よく省略されたりします。
 また、時間を掛けて描かれていくなかで、既に描かれた要素、これから描かれる要素が影響しあい、描かれ方に変化が加わったり、描かれたものが修正されたりします。
 出力先が2次元だったとしても、制作過程が3次元的に展開しているのです。
 
 いずれにしても、作者が作品にどれだけ対峙したかが、作品の世界観をいかに再現できるかにつながっているのだと思います。
 僕個人としては自分自身の創作物にそこまで真面目では無いので、作品として発表できる人には有名・無名問わず尊敬の念を持っています。
 最近、Twitter上でとにかく良いと思った作品はイイねを押しまくったり、リツイートしたりしているのは、どんなに小さくてもそれが制作のモチベーションにつながってくれたらいいと思っての事であったりします。
 迷惑だったら申し訳ない限りですが。
 それでも、いろいろな作品から日々の元気を頂いています。
 その事そのものに、多大な感謝を。

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