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「説明責任」という文化をもっと日本に取り入れるべき理由

TAKA(@Murakami_Japan)です。昨今、五輪大会組織委員会の会長をめぐる問題など企業不祥事に関わる問題に限らず、あらゆる組織運営においてこの「説明責任」が問われるような事例が目につくようになっています。そこで、今日は「説明責任」について考えてみたいと思います。

まず、「説明責任」を英語でなんというかご存知でしょうか。英語では「アカウンタビリティ "accountability")と呼ばれ、組織・企業運営においては極めてよく知られた言葉です。正直、日本でこの「説明責任」という言葉がどれぐらい日常的に浸透しているでしょうか。個人的には深く浸透しているとは感じておらず、ごく専門的な領域で使われたり、時に企業不祥事や政治に対して「説明責任」を問いただすというシーンで耳にする言葉ではないでしょうか。

wikipediaでは以下のように説明されています。

説明責任とは、政府・企業・団体・政治家・官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主や従業員(従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者、取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治と倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。

なぜ説明責任が重要なのか

まず大事なのは、常に自分以外のステークホルダーが存在するということです。ステークホルダーが自分だけで他に存在しないのであれば、説明責任は全く重要ではありません。全て自己責任なわけですから、自分の納得性を高めるだけの理由があれば十分なわけです。

なぜ説明責任が重要か一言で言うとするなら、自分以外のステークホルダーが存在するからです。逆にいえば、自分以外のステークホルダーがいる場合は、説明責任は当然発生するわけです。ですので、責任と呼ばれているのです。

自分以外のステークホルダーを巻き込む以上、何も説明しないわけにはいきません。巻き込むだけの理由が必要であり、その理由に対して行動していることを伝える、説明することが巻き込むために必要だからです。

実はここで重要な前提をひとつ置いていることがあります。それはすべてのステークホルダーが公平であるということを前提としています。この前提が崩れているケースが世の中に存在しています。奴隷が典型的なケースでしょう。なぜこんなことをさせられているのか、主従関係の中で説明責任は一切発生していませんでした。

現代社会でも奴隷契約と呼ばれる類のものがありますが、そういう不公平な契約を結んでいるケース、もしくは結んでいなくても不公平な関係性を築かされている場合も同様です。不公平な状況下では、説明責任が無視されているのです。

説明責任を果たさないと何が問題か

ここでは公平な関係性を前提に考えてみたいと思います。本来公平な関係であるにもかかわらず、説明責任を果たさないと何が起きるでしょうか。いくつか問題が発生します。

①信頼関係の毀損
信頼関係は大きく毀損するでしょう。説明すべきことを説明しないのですから、当然です。加えて、説明していないことに対する不信感が募るでしょう。

②必要な情報が伝達されない
説明されないわけですから、ステークホルダーに必要な情報が伝わらないことになります。情報の非対称性をより大きくしてしまうのです。

③判断を間違う
情報が不足することで、状況認識に誤りが生じやすくなります。その結果、正しい情報が伝わっていた場合とで、判断が異なる場合があります。結果的に判断を間違わない場合も当然ありますが、基本的には正しい情報が不足すればするほど判断を間違う確率は高まります。

④責任を全て被ることになる
判断を間違うことはどんな個人、組織にもつきものです。間違わない人間はいません。

今後さらに進化が予想されるAIも同様です。なぜならばすべての正しい情報を入手し、判断に生かすことが事実上難しいケースが多いからです。ただ、AIが優れているとすると、どのような情報を活用し、どのようなロジックで判断したかという点が明らかになることが期待されています。間違った理由が明らかになれば、改善の方針も立てられますし、またどこに間違いの責任があるのかも明らかです。そうすれば、AI=悪ではなく、その責任を全て被る必要はなくなります。

人間社会や組織においても同様です。説明責任を果たすことは責任を明確にすることが可能になり、特定の人物や組織だけに責任を押し付ける必要がなくなるのです。多くの場合、責任は複合的な要因で生じるからです(※当然、明らかなミス、悪意ある判断の責任は当該者が負うべきなのは別の話です)。

⑤隠蔽のインセンティブが生じる
責任を負うリスクを恐れるようになると、その責任をできる限り逃れようという意図が生まれます。これがあらゆる組織で生まれてします隠蔽の原因です。説明責任を果たさないこと、責任問題が大事化し、それにより隠蔽インセンティブが増大してしまうのです。

⑥さらに説明責任を果たさなくなる
一度、隠蔽してしまうと説明責任は全く果たせなくなるでしょう。また、重大な隠蔽まで至らなくても、軽微の隠蔽でもそれは十分に説明責任を果たしたとはいえません。

①から⑥の流れを見て明らかなように、徐々に説明責任を果たさなくなる、ある種のネガティブ・スパイラルが存在しているのです。

なぜ説明責任を果たせなくなるのか

上述の通り、説明責任を果たさないことのリスクやデメリットは明らかであるにもかかわらず、なぜ説明責任を果たせなくなってしまうのでしょうか。

それはある種の対等性を無視したステークホルダーの関係性を無意識、もしくは意識的に前提としてしまっているからだと考えています。対等ではない、はっきり言ってしまうと、自分の方が偉いから、自分の方が賢いから、自分は任されているからといった理由で、対等性を否定し、結果的に説明責任を果たさなくなるというスパイラルに入り込んでしまうのです。

自分は任されている、と言う観点も誤解を生みやすいポイントです。任されている=全権を委任されていると拡大解釈しすぎてしまうことが多いように思います。委任される際に当然伴っている、説明責任=アカウンタビリティの概念が吹き飛んでしまっているのではないでしょうか。

説明責任を果たすことのメリットは何か

明確なメリットは3種類に分けられると思います。

①権限移譲によるスピードアップ
1つは、信頼関係が向上することによるメリットです。ステークホルダー間の信頼関係が良好になることで、より意思決定における権限移譲が進めやすくなります。それにより意思決定のスピードが上げられ、戦略や政策など調整が難しいものもよりスムーズに実行で切るようになるでしょう。

②リスク許容度の向上
もう1つも、信頼関係が向上することによるメリットです。これにより、なにか判断を間違えたり、想定外のトラブルが発生した場合のリスクコントロールがよりやりやすくなります。なぜならば、どのような情報をもとに、どのような判断基準で意思決定をしたかが明確であるからです。説明責任を果たすことで、より大きなリスクを伴う判断が実行しやすくなります

③判断の精度向上
最後は、ステークホルダー間で情報がスムーズに伝達することによるメリットです。情報が正しく、より多く伝わることで、正しい判断が行いやすくなります。

説明責任はガバナンスの一部

「説明責任」の重要性は上記の通りです。これは実は、ガバナンスそのものと言えます。正確にはガバナンスの一部と言った方が良いでしょう。

昨今、日本の組織、企業、政治、あらゆる場面で、「説明責任」を問うべきケースが増えています。また、「説明責任」が不足しているというステークホルダーが多く存在します。

企業であれば、従業員や株主などのステークホルダーへの説明です。IRという企業情報の開示や投資家への説明もそのひとつです。

政治の場面であれば、有権者であり納税者である国民への説明でしょう。組織の場面でも、組織運営が及ぼす広範なステークホルダーがいるケースがほとんどです。

多くの場合、ステークホルダーを限定しすぎているように思えます。自分だけわかっていれば良い、ごく周辺の内通者や上司にだけ説明しておけば良いと言うケースです。「説明責任」を果たすと言うのは、ガバナンスの一部であり根幹でもあるのです。

下記のnoteで企業におけるコーポレートガバナンスについて解説をしています。ここで3つの重要なガバナンスの役割について触れています。

1)企業価値を毀損しない
2)安心して投資できるようにする
3)企業価値を高める

今回触れた「説明責任」はこの3つどれもに関連ということがお分かりいただけでしょうか。つまり、「説明責任」なしには、企業価値を毀損リスクから守りきれない、したがってステークホルダーは安心して投資したり組織に任せたりできない。また、判断を間違うことで企業価値や、また政府や組織が取り組んでいる施策の効果を最大化できなくなる、と言うことです。

「説明責任」は一人一人が負うべき「責任」

最後に誤解が生じないように触れておきたいことがあります。この「説明責任」は企業や組織のトップだけが負うものではないと言うことです。

「説明責任」を企業や組織が全うするためには、実はそこに所属する一人一人が日常的に責任ある説明を行い続けることが必要なのです。

上司は部下に説明をする責任がありますし、部下も上司に正しい現場や顧客の情報を説明する責任があります。こういう当たり前のことを日常的にできるかどうかが、最終的に大きな組織が「説明責任」を全うできるかの大きな結果に関わってくるのです。

以前、上記のnoteでも触れた企業文化もガバナンスの一部である、というポイントは「説明責任」においても同様だと思います。今、日本は大きな転換点にあります。

政府、組織、企業、それぞれが「説明責任」を果たしていくことが重要であり、それには日本全体にこの文化を浸透させていくことがますます重要になっているのではないでしょうか。

文化というのは、失敗した人を「責める」ときにだけ「説明責任」という言葉の武器を振りかざすのではなく、日常に浸透した一人一人の「責任」として自分事化していくことをさします。

「説明責任」を文化と言えるまで浸透させることができれば、結果的に一人一人がより尊重し合い、気持ちよく生活できるようになるのではないか、と希望も込めて投稿いたします。

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