紙飛行機

 病気が癒えた僕がまず最初にしたことは、コミックのページを破って紙飛行機を折ることだった。一つ折ってはベッドの向こうの壁に向かってそれを飛ばした。真っ直ぐ飛ぶヤツもあるが折り方によってはそうじゃないものもある。破ったページをさらに折って指でちぎりなるべく長方形になるように工夫する。翼に揚力をつける折り方もアレコレ試すと、あっと言う間にコミックの全ページが破り取られ、ベッドの周辺は紙飛行機とちぎれた紙屑に埋もれていった。何冊かのコミック雑誌を紙屑に変えるころ、見かねた父親がとうとうコピー用紙の一締めを僕の枕元に置いて行った。
 春の終わりに僕の鼻と口を覆っていた酸素チユーブが外された。生まれつき僕の胸には肺がひとつしかない。五月は十月と並び一年を通じて一番呼吸が楽になる季節で、それはベッドから抜け出して外に出られるというワクワクするような体験を意味していた。去年の十月は生まれて初めて父と星空を並んで見上げたりした。あの天の川の揺蕩(たゆた)うようなきらめきは頭の中がぐらぐらするような衝撃を僕にもたらした。夜空の下の空気のすがすがしさ、湿った土のにおい、遠くの森の頂きが漆黒のスカイラインを結ぶさま、近くの林が風にゆすられて聞こえる葉擦れの音色、そして、まだ見たことはないが、その木立を抜けると深い渓谷に流れる青々とした川があると、父が僕の耳元でささやくように教えてくれたりした。
「お前がいつか歩けるようになったら連れて行ってあげよう」
「今度の春には絶対大丈夫だよお父さん!」
 だから、僕は、鼻と口を覆っていたチューブが外されるとベッドに腰かけて自分の両足を床に下した。
 一年の大半をベッドの上で過ごす僕の足は細く弱々しいばかりか、両腕にもまるで力がない。僕はそれでも渾身の力を振り絞ってベッドサイドの車椅子に身体を預けた。そして車輪を回して向きを変えると紙飛行機のひとつを膝に乗せて五月の屋外に向かって車椅子を漕ぎ始めた。ゆっくりと。慌てるとすぐに息が切れて呼吸ができなくなってしまうから・・・。
 でも、初めて外で飛ばした紙飛行機は僕の期待ほどには飛んではくれなかった。何度やってもすぐに機首を下げて墜落してしまう。その度に僕は車椅子を漕ぎ直し、身を乗り出してはそれを拾った。五度、六度。息が切れ、腕もしびれ、僕はとうとう音を上げてその紙飛行機を拾うのをあきらめ青い空を見上げていた・・・。しばらくすると家のポーチでそれを眺めていた父が僕の背後に歩み寄って車椅子の向きをグイと家とは反対の方に向け、こう囁いた。
「谷にそれを飛ばそうじゃないか?」
父は紙飛行機を拾い上げ僕の掌(てのひら)にそれを置いた。
「あそこなら良い風が吹いているだろう」そう言いながら。
僕は力なく、うん、と答えた。
あそこへは僕ひとりで行きたかった―、とは、とても言えなかった。
 ところどころ白樺が点在する木立を抜けるとゆるゆると続く小道があり、小さな野草の群落を過ぎればいきなり目の前の視界が拓けて深い渓谷が僕に飛び込んできた。崖の手前で父は車椅子を留め眼下に流れる川の様子をうかがう素振りをした。僕も身を乗り出して川の音を聞いた。ドドドドドと、川は水量豊かな轟音とともに流れていた。僕の想像と違い新緑の若芽のような美しい緑色の川面だった。そこから僕の顔に向けて風が立っていた。僕の顔というより、この渓谷全体に薄緑色の風が沸き立つように吹いていた。僕も、多分、背後の父も、うっとりするようなこの風にしばらく身を任せていた。
 「それを飛ばしてみたらいい」父がそう僕に促した。僕は紙飛行機を飛ばした。
 僕の紙飛行機はベッドから飛ばしたそれと同じように真っ直ぐに飛んだ。そして、川面から立ち上る風に乗ってゆっくりと上昇して行った。
「ほう、すごいじゃないか!」父の感嘆の声も聞こえないほど、僕の紙飛行機は『僕』を乗せて飛んでいた、今度はゆっくりと左に旋回し、次いでまた上昇する。緑の森も渓谷もすでに遥かな下、紙飛行機はいつのまにか雲に隠れて見えなくなってしまった。それでも僕は食い入るように空の一点、僕の紙飛行機が飛んでいるだろう、その空を見つめ続けた。やがて、その雲に小さな針の穴のような点が見え始めた。その小さな点は次第に大きくなってくる。それは、どんどん大きくなってくる。なんだろう?と僕は思った。あれは一体なに!?
 その点はあろうことか黒い飛行機だった。グライダーっていうのかな?プロペラのない飛行機。その黒いグライダーは僕の紙飛行機が見えなくなったところを悠々と滑空しながら渓谷の底に向かって飛んでいた。そして、身を乗り出して眺めていた僕の目の先の、緑の川面のその岸辺にフワリと着陸したではないか!僕はちょっと怖くなった。いや、ちょっとどころではない、すごく怖くなったけれどそれでも僕はそのグライダーから目が離せなかった。やがて、その黒いグライダーの風防が開いた。中には男が乗っているように僕には見えた。
「お父さん!もう帰ろう!」
小さなひとつだけの肺から発したか細い悲鳴と同時に僕は、黒いグライダーを操縦していた男と目が合った。それは、まぎれもない僕本人だった。そして、僕の背後にいた父は消えていた。
 僕は部屋の片隅にいるのだが、僕に気付く人はもういない。
 僕が最後に見たのは僕の空っぽのベッドの上に乗せられていた僕が折った僕の紙飛行機。それひとつきりだった。
(終わり)

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