見出し画像

私の卒業旅行記(*ノンフィクション)

この記事をご覧いただきありがとう。
あなたは、卒業旅行という文化を知っているだろうか。
一般的には、進路の決まった学生が最後の思い出を作るべく旅行を行うものとされている。
学友たちと同じ時間を共有し、グルメや景色やアクティビティを楽しみつくす。
実に素晴らしいではないか。

だが、あれは理想である。
ここに私が体験した卒業旅行の記録を残す。
この記事が、誰かの助けになるかもしれないと私は信じる。

波乱の1日目

1.~現地集合の罠~

旅行の幕開けは、集合からである。
当時私たちは、高校生であったため居住区域が離れている者同士も多かった。
その結果、事前の打ち合わせで当日は宿泊先の最寄り駅に集合することが決まった。

2024年3月26日。
旅行の初日。
天気は清々しいほどに大荒れだった。
前日から降り続ける雨は激しさを増し、気象ニュースには大雨注意報の表示が出ていた。
それを踏まえての私たちの結論は、雨天決行だった。
若さゆえのエネルギーと高揚感の前に注意報は敗北した。
思えば、この決断が全ての現況であったのだろう。

伝え忘れていたが、私たちの旅行先は静岡県の伊豆だった。
私の家からは、電車を乗り継ぎ3~4時間という距離。
大雨の懸念もあり、私は予定よりも早く家を出た。
降りしきる雨の中、私は大荷物を抱えての1人旅を何とか楽しんだ。
幸い電車の遅延に巻き込まれることもなく、全ては順調であった。

はずだった。

違和感に気づいたのは熱海に到着した時だった。
私たちはそこで乗り換えの必要があったのだが、乗り換え先の路線は本数が少なく1時間に1本しか走っていない路線だった。
そのため早く家を出た私でさえ、万が一乗り遅れてしまった場合は遅刻してしまう状況であった。
にもかかわらず、ホームには私しかいないのだ。

私は焦りだした。
何か間違えていたのかもしれない。
集合場所が変わったのかもしれない。
LINEの履歴を確認した。

そこに表示されていたのは…

「寝坊した」
「みんな今どこ?」
「遅延やバイ、遅れる」

クラスメイトの叫びたちだった。

結局のところ、私は何も間違えていなかった。
予定通りの電車で、予定通りに集合場所へと着いた。
当然のことながら私以外は誰もいない。
電車もめったに来ないので、正真正銘の無人駅。


雨のせいですることもない。
見ていられるものもない。
ベンチは雨で濡れていて座れない。
そんな状況で私は、1時間後の皆が乗ってくるであろう電車を待ち続けた。

現地集合とは交通の便が良く、栄えている場所でするべきなのだと知った。


2.~最寄りとは、便利な言葉である~

やっとの思いで集合することが叶った。
1時間も待ちぼうけをした甲斐があってか、天候も少し落ち着き雨も小雨になっていた。

改めて中心となって企画をしてくれていた人に宿の場所を確認する。
ここで私は驚愕の事実を知ることになる。

上記のマップは、私たちが現在いる駅から宿までの距離と所要時間を示している。

”3.2㎞” ”所要時間45分”

これは本当に最寄りなのだろうか。
私の中の最寄りの定義が崩壊した瞬間だった。
それと同時にこの知らせは私たちにとても大きな衝撃であった。
その要因は、以下に示す宿泊予定の宿の注意書きにある。

*当宿での料理の提供はありません
 材料を持参の上、ご自身で調理を行ってください

3月とは言え、既に気温は高くなってきていた。
そのため材料は旅行先で調達することになっていたのだ。
そう、”現地調達”なのだ。

状況を整理しよう。
私たちは、これから食料の買い出しに行かなくてはならない。
それから人数分の食材を持って宿まで3.2㎞、45分の道のりを歩かなくてはならない。
尚、食材を買うことができるのは、今いる駅から500m程の場所にあるスーパーしかない。

私たちの間に悲壮感が漂いだした。
天候も相まって空気も絡みつくように重たい。

だが、流石は苦楽を共に乗り越えてきたメンバーだ。
培ってきた団結力を、洗練された能力を発揮しだした。
宿までの最短経路を調べる者。
店での買い出しの分担を決める者。
各々が自らの役割を見出し、実行する。
それが私たちであった。

消えかけていた気力もみなぎり、前を向いて一歩を踏み出す。
それを迎えてくれたのは、先ほどまで息をひそめていたはずの雨であった。
今日一番の荒れ模様であった。

カンゲイ、ドウモアリガトウ。

時間は少し飛び、買い物終了後に移る。
相談の結果、初日の夕食は焼肉に決まった。
肉、野菜、魚介など様々なものを取りそろえた。
残すは宿へとたどり着くのみである。
幸い、雨の勢いも弱まっていた。

歩き始めて数分後のことだった。
「宿、あの辺!」
誰かがそう叫んだ。

いったいどこを指しているのだろうか。
私には見当がつかなかった。
「あの辺!」
また誰かが叫んだ。
あの辺が指す場所、それは…

写真の中で印がついている山の裏だった。
私は絶望した。

旅行に来たはずなのに、これでは行軍訓練である。
重い荷物を背負い、足場が悪い中を歩く。
加えて基本的に道は上り坂であった。

目印もないため道が正しいのかもわからない。
ただ正しい道を進んでいると信じて歩くことしかできなかった。

途中、何度も突発的な雨風に見舞われた。
中には傘を失った者もいた。
旅行とは思えないほどの過酷な道のりであった。
やっとの思いで宿に到着するころには、日もとっくに暮れ、全員ずぶ濡れの満身創痍であった。

この日ほど強く、自動車免許を取りたいと切望した日はなかった。


3.~戦争は食糧問題によって起こる~

決死の行軍を終え、しばしの休憩の後炊事の時間が到来した。
本日の献立は焼肉。
材料を切り、焼く。
ただそれだけ。
それだけのはずであったのだ。

問題が発覚したのは調理を始めて間もなくのことだった。
「玉ねぎって皮剥く?」
この質問に耳を疑った。
料理が苦手のレベルが想像を超えてきていた。
他では殻付きの冷凍エビが姿焼きにされかけていたりもした。

このままでは集団食中毒になる。
危機を感じた私は奮起した。
疲れ切った体に鞭を打ち、ひたすらに野菜を切った。
ひたすらにエビを茹で、剥いた。

残念ながらこの判断は失敗であった。
私が野菜や魚介と格闘している時、別の場所で肉を巡る戦争が起こっていたのだ。

戦争の火種は荷物の割り振り方にあった。
行軍をするにあたり生モノは、なるべく一つの袋にまとめ保冷剤を入れて運んでいた。
その肉を運んできた者たちが、反旗を翻した。

私たちは団体であったので、宿では5部屋に分かれて泊まることになっていた。
そのうちの2つの部屋で焼肉は行われる予定だった。
だが、片方の部屋が肉を持ち籠城をし始めた。
彼らの主張は以下の通りだ。

「我々は、ここまで苦労して肉を運んできた。その対価は、当然肉で支払われるべきである。お前らには魚介を多めにくれてやる。だが、カルビは我々のものだ!」

めちゃくちゃな理論である。
これに納得がいかなかったのは全員だった。

対戦の火ぶたが切られるまで5分もいらなかった。
直ちに機動隊が組織された。
片手に箸をもう片方の手に皿を持った彼らは、果敢に肉を奪おうと試みた。
それを受けて反乱軍はしいたけや焦げ肉を渡すことで抵抗。
この闘争は肉が尽きるまで続いた。

勝者のいない、虚しい戦いは1時間ほどが経過した後に、焼肉特有の悪臭を残して終結した。

食糧問題によって起こる戦争の悲惨さと虚しさを実感した。


4.~混乱の二日目へ~

ここまでお付き合いいただきありがとう。
今回の記事はこの辺りで完結とさせていただこうと思う。
実際の旅行はあと2日残っており、1日目でさえ全てのエピソードを書き切れたわけではない。
それらについてはまた、機会があれば記そうと思う。

最後にこれだけは伝えておこう。
この内容はフィクションではない。
全てがノンフィクション、現実であるのだということを強く訴えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?