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レヴィ・ストロース「野生の思考」 その衝撃的な知性


NHK「100分de名著」という番組でこの年末にレヴィ・ストロースの「野生の思考」が取り上げられたそうです。レヴィ・ストロースはフランスの民族学者でアフリカやブラジルの山奥に住む未開の原始人らと生活を共にし、その未開文明を紹介し分析していった学者でした。「野生の思考」というこの本はアフリカや南米に生きる原始民族の生活や儀式などの文明を記した本です。

それだけならこの本はただの文明論述本であり、別にどうこうということはないのですが、この本は1960年代に一大センセーショナルを起こした一冊として知られています。実はこの本には、最後に書かれたオマケの部分があって、そのオマケがとんでもなく凄くて、そのオマケ部分が哲学史を根本から変えました。私事ですが、それを読んだ私もまた人生の価値観を根底から変えられました。

しかし。

今回のNHK番組ではそのオマケの部分はあくまでオマケだからなのか、まったく触れられなかったようです。この本を取り上げておきながら、なぜそこに触れないのか…ということはさておき、まったくの学問ど素人ながら、誰よりもレヴィ・ストロースを愛してそれを読み込んできたという自負がある自分が、NHKが触れようともしなかった「野生の思考」のオマケの部分について解説してみたいと思います。

レヴィ・ストロースは一体何を書いたのか。


そのオマケ部分とは、早い話が「西洋文明全体への批判」でした。南米の原住民らと寝食を共にし過ごした学者レヴィ・ストロースはその原始民族の文化を理解し、彼らに変わって…ヨーロッパ文明そのものを批判したのです。論争を挑んだのです。その批判というのは決して空回りしたものではなく、具体的に矛先が向けられていました。当時の西洋インテリ界の頂点に立っていたジャン・ポール・サルトルに対して向けられました。「野生の思考」の最後のオマケ部分とは、レヴィ・ストロースによるサルトル批判だったのです。そして、批判を受けたサルトルは、彼の立場からするとヨーロッパ思想界の当時のNo.1だったわけですから、その批判に反論する立場にありました。

では、そこには具体的にどういうことが書いてあったのでしょうか。

すごくわかりやすく言えばそれは「過去」にまつわる論争でした。過去はあるか、無いか。過去は存在するか、存在しないか。例えば、ヨーロッパ文明にはカレンダーがあり、それに基づいた歴史があります。ヨーロッパの知の文明とはおおよそがこの歴史の積み重ねに基づいており古代ローマのセネカやエピクトテス、ギリシャ文明のソクラテスにアリストテレス、あるいはカントやヘーゲルなどのドイツ観念論に至るまで、それらは歴史という時間の積み重ねと文字の積み重ねに立脚しています。ところが、アフリカのピグミー族は文字も数字も持ちません。数字が無いからカレンダーがなく文字が無いから歴史も無く、概念としての過去が存在しないのです。

「西洋人は哲学だ歴史だとかエラそうに言ってるけど、そんなことオレら原住民らにとっては関係ないし意味がないし、そもそもあんたたちの言ってる過去というものがそもそも存在しない。」

つまり、サルトルはこういう言われ方をされたのです。

だったら、過去とか歴史とかがどういう風に実際に存在しているかを反論しないといけないわけですが、サルトルはこれに手間取りました。そして、レヴィ・ストロースは原住民らの生活文明を題材にして、近親相関が起こらない社会システムを記号だけで説明して見せたのです。原住民らは文字を持たないから氏名を持ちません。名前がないのです。名前がないのなら社会の中で近親相関が起こりそうなものですが、それが起こらない。○とか△とかいう記号で交配を示しながらレヴィ・ストロースはそれを説明をしました。

ヨーロッパの長い歴史の中で「近親相関はなぜタブーか?」ということを説明できた人はいませんでした。過去というものがそもそも存在するかどうかなど疑ったこともない。それがヨーロッパ文明でした。しかし、そのヨーロッパのNo.1だったサルトルはレヴィ・ストロースが持ち出してきたこの未開文明(無文字文明)からの問いかけに対して、ほとんど何ら反論することができず、論争の勝敗という面ではコテンパンに負けました。サルトルはたった数年で社会党のビラ撒き係にまで転落させられてしまったのです。

レヴィ・ストロースの提唱したこの記号による構造哲学というのは、この直後から爆発的な影響力を持って思想界を蹂躙しました。ところが、大学とかはこの動きを無視しました。歴史は意味がないとか過去は存在しないとかいうことが闊歩し始めたり、それを大学で教えたりすることは自己矛盾になるからです。権威ある組織、権威のある学会・大学ではレヴィ・ストロースというのは触ることのできない題材なのです。

大学やNHKという文明の権威はレヴィ・ストロースについて語りたがりません。当然です。

文字も過去も無きものにしてしまう「野生の思考」。

しかし、レヴィ・ストロースの提唱した記号構造論というのは名前を語らずに知らないもの同士がやり取りしたり、それがいつ誰によって書かれたものかハッキリしない文章がリツイートによって広がって新しいコミニケーションを生んだりするこのインターネット社会の到来というのを先見した文明論であり、原始のことを語っているようでありながら実はこの人間社会の本質というものを示唆した本である…というのが、これを書いている私の感想です。インターネットをしていると我々は過去を厳密に理解しようとしません。ツイッターでも「1日前」とかいう表示であり記号的です。

「過去は存在しない。するとしても記号として存在する。」

…というレヴィ・ストロースの言葉は毎日のように私の頭をよぎるのです。

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