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掌篇小説|菜虫化蝶

七十二候 第九候 なむしちょうとなる 青虫が羽化して紋白蝶になる(Wikipediaより)

お昼休みが終わるなり、跋々化学の那仁さんの処へ、書類を届けに行くよう頼まれた。電車通り沿いなので、迷う心配はなさそうである。持ち重りのする封筒を預かって、自転車で出掛けた。

いささか草臥れた小さなビルのエントランスを入ると、正面に階段があって、左手側が病院の受付みたいな造りになっている。案内を乞うと、担当者を呼び出すので、暫く待つように云われた。

応対してくれた社員が、受話器に手を伸ばした瞬間、背後から駆けて来る足音が聞こえた。振り返ったら、作業着姿の小柄で気弱そうな中年男が、「本当に、どうもすみませんです、はい。随分、お待ちになったでしょう」と、息を切らし、おろおろしながら云った。まさか、まだ電話もしていないのだから、私の待ち人が現れるはずがない。気圧されて反応出来ずにいると、作業着の男は、「担当の奈仁でございます。お待たせして、申し訳ございませんです、はい」と、重ねて云った。人違いではないらしい。

「お世話様でございます。田レ専門員から、書類を預かって参りました」と、手渡して、さっさと帰ろうとしたら、受け取りはしたものの、「それでは、はい、どうぞ、お二階の方へ」と、相手が無茶な要求をした。

「私はお遣いだから、仕事の話をされても分かりかねる」と答えかけたら、那仁さんは更に困惑したように、「いや、はい、あの、田レさんに、こちらからも、お渡しして頂きたい資料がこざいまして、はい、お聞きになっておいででは、ございませんでしょうか」と、しきりにもじもじ足踏みした。

聞いてはいないけれども、持ち帰らないでは済まなさそうだ。仕方がないので、案内されるまま二階に上がった。

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招き入れられた狭い部屋は、資料室なのだろうか。幾つも並べたスチールの棚の間を通ると、窓際に一つだけ、机が置かれている。奈仁さんは机上を指し示し、「こちらでお見せしますので、はい、ごめん下さい、少々お待ちを」と云い、棚の向こうに急いだ。

姿が見えなくなった途端に、別の方向から、微かな音が聞こえた。もしかして、と予想してしまうと、もういけない。あの、茶色で薄べったい、恐ろしい虫の気配をひしひしと感じる。古いビルだから、沢山いても不思議はないけれど、私の視界には入らないよう念じた。

「またしてもお待たせして、重ね重ね、申し訳…ああ」と、分厚いファイルを抱えて現れた奈仁さんが、窓の方をやや上向きに見詰めて、固まってしまった。視線を辿って天井方向を見てみたら、ふわふわしたピンポン球様の物が、蜘蛛の糸に垂らされたみたいに降りて来る。吃驚して眼が離せないでいると、中から何が出てくるらしく、微妙に動いている。

奈仁さんがファイルを投げ捨てて、そちらに駆け寄った時には、ふわふわの球は机の上に到着していた。そうして、中から、やはり白くてふわふわの、小豆の粒くらいの物が、綿毛を破っては、続々と這い出て、忽ち机の上いっぱいになった。

奈仁さんは大慌てに慌てて、「まさか、こんな、駆除は毎年、きっちり致しておりますんで、はい、はい、まさか、こんなはずは」と、白い虫だか何だかを、両手でかき集めてポケットに詰め始めた。けれども、それは見る間に大きくなって、ポケットから溢れてしまう。もう良く見なくても、それが犬の赤ん坊であることが、はっきりと分かった。

犬は、きゅんきゅん鳴きながら、ハムスターくらいになり、猫くらいになり、もっと大きくなって、部屋を埋め尽くす頃には、ウォンバット程にも成長し、それでも姿はやっぱり赤ん坊のままであった。

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犬柴
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