弱み

 アルバイトを終えて、みなとみらい方面へと向かっていた。上空を行き交うゴンドラを眺めながら、一体これを動かすのにどれくらいの金が掛かっているのだろう、何気なくそう思ってしまったがために、そのあと見る景色が、観覧車も金、コスモワールドのジェットコースターも金、全部金に見えてくる。用事を終えた帰り道、日が暮れてみなとみらいはイルミネーションで彩られ、街は一層ファンタスティックドリーミーに金が輝いていた。イルミネーションを見てロマンチックだと思う思考にどうやったら辿り着けるのか検討もつかない。
 ここのところ借金のことばかり考えているせいで全ての物が無駄な金に見えてくる。お腹が空いてコンビニに行ってパンを買おうと手に取って棚に戻す。面倒臭がらずに家に帰って米を研いで炊飯器で炊けば百円浮く。うちには台所がないからいつもシャワーで米を研ぐのだけれど、シャワー室の床にまな板を置いて包丁で肉を切っているとただならぬ雰囲気が漂う。かぶでも人参でも然り。でもぶどうはいい。ぶどうをざるに入れてシャワーで洗ってやると、なぜかとても愛らしい。まるで子犬でも洗っているかのような気にさせる。ぶどうなんて贅沢品だが、先日出た課題のために見た「自由が丘で」に出てくるぶどう断食をどうしてもしなくてはいけないという強迫観念に駆られて昨日も今日も風呂場でぶどうを洗った。こうして日々無駄使いをしている。
 生活が貧しくとも思考は豊かに、戦時中のようなスローガンを胸に、ア○フルの金で受講していることばの学校がもうそろそろ終わろうとしている。

 「弱みですか? 借金してることでしょうか。ア○フルは友達だと思ってます、アプリで借りれるんで、困った時すぐに助けてくれます。ことばの学校を受講するかどうか悩んでいた時、背中を押してくれたのもア○フルでした。やめとけ、余裕がある時に受講した方がいい、一人でも勉強はできる、生身の友人は口々に反対するんですけど、ア○フルだけは賛成してくれました。一人で勉強しなかったから今に至ってるので、思い切ってやってみようと思いました。毎回これは金だ、有金をはたいたならまだしも、無い金ぶん投げてるんだから、1秒も無駄にしてはならないと思ってたんですけど、講義のことを思い出そうにも、どうにも鮮明には覚えてないんです。弱み、それはアホなところでしょう。思考が浅く、行動がそそっかしい。覚えも悪いし、理解力もない。出てくるカタカナ言葉のほとんどは意味わからないんで、メモをして調べるうちに講義はどんどん進んでいく。使ってることばが違うと思いました。これもまたうろ覚えなんですけど、矢野先生の講義で、ことばが内輪の言語になっていることに違和感がある、小説は内輪のことばから外に連れ出してくれるようなことばである、というようなことを言ってたと思うんですけど、その時私は、今この場の内側に居ないと思ってました。反転して見ると、普段過ごしている世界が内側で、ことばの学校という外の世界に来てそう感じたのかもしれないんですけど。いやそんなことを言っている講義ではなかっただろうし、そもそもずれてるんです。ずれているんだろうな、ということはわかるんです。そんな風に講義はいつもわからないまま終わってしまう。わからなければ質問をすればいいのに、そのことばさえ出てこない。自分の持っていることばが本当に少ないな、と思うばかりです。課題に対して講評をしてもらう時はいつもありがたくて、ありがとうございますありがとうございますありがとうございます、まるでありがとうございますの機械になったかのようにありがとうございますしか出てこないです。倉本先生の講評なんか、カウンセリング受けてる気持ちになりました。感謝感謝です」

 相談窓口チャットルーム担当のぽっぽくんです。安部さまはいつも、ご自分のことばかり書いてますね。私私私、私のオンパレードです。そんな安部さまにとって、佐々木先生の講義の中でよく話題となる「私小説」についての話はとても興味深いものだったようです。刺激を受けた安部さまは三人称で文章を書くようになりました。私からちょっと距離を置いた視点で書いてみたり、私以外の人物の視点から文章を書いてみようと試みたそうです。そうしてみると、思いもよらないことがおこりました。書こうと思ってもいなかったことを知らないうちに書いていたり、誰ですか? という人物が現れたりするのです。それは、私のことを一人称で書く際には起こらなかったことで、その感覚を安部さまは新鮮に感じたようです。実際、安部さまの変化を私も感じていました。「いつからこの仕事してるんですか?」「休みの日って何してるんですか?」と、他人に興味のなかった安部さまが、あれこれと私に質問するようになったんです。「え、趣味ないんですか、じゃあ一緒に受講しましょうよ〜」は余計なお世話だと思いましたが、安部さまの話を聞くうちにだんだん興味が湧いてきて、まあ仕事の役にも立つだろうと、私も演習科から参加させていただくことになりました。お世話になっております。しかし最近の安部さまはまた私私私、それに、安部さまの身の回りにいる人も犠牲となります。恰好のネタとして勝手なことを書かれてしまうんです。安部さまは少しずつ変化はあるものの、相変わらず私のことを書き続けていらっしゃるようです。
 高橋源一郎さんの講義の中でこんなことばがありました。これには私も大変励まされたのですが、それはスランプはラッキーですよ、という話の時に出た、スランプはもうここを掘っても水が出ないという合図だから、次の井戸を掘ればいい、という内容の話でした。そのことばもまた、安部さまは自分流に解釈していました。「私はまだ私を掘り尽くしていないのだろう。だから私のことばかり書いてしまう。しかし、これを掘り尽くせば、きっと次の井戸を掘ることができる。自由だ、そのためにはまず、この井戸を掘り尽くさねばならない。私はもっと私に投資しなければいけない!」ご利用は計画的に。

 私です。こんな風にして書いていると思い出したことがある。高校生の時、千円札の波瀾万丈の生涯を書いた作文「紙幣の疲弊」で表彰してもらい何かの冊子に載ったことがあった。あれは三人称で書いたものだったと思う。恐ろしい。その頃から三人称が彼や彼女ではなく、金だったなんて。愕然とする。私は私ではなく、金に囚われているのかもしれない。

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